向井国広


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向井国広(むかいくにひろ)  

短刀
銘 洛陽一条住藤原国広造/慶長十五庚戌二月日
金象嵌 向井忠勝井将監忠勝所持之
号 将監国広
長1尺2分、反り1分弱

  • 刀工国広による慶長15年(1610年)の作。
  • 差表に「洛陽一条住藤原国広造」。金象嵌で「向井将監忠勝所持之」、裏に「慶長十五庚戌二月日」と在銘。
  • 平造り、三ツ棟。僅かに反り。鋩子小丸。
  • 差表に杖、裏に樋のなかに払子(ほっす)の浮き彫り、その下に「錯凌臘雪辞片岡高嶮帰心得太刀山(鼎印)」、その下に達磨像を彫る。
  • 生ぶ中心、目釘孔1個。
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由来  

  • 江戸幕府の船奉行、向井忠勝所持にちなむ。
    向井氏(向氏)は、もと伊勢国国司北畠氏の海賊衆。元亀年間(1570年ごろ)には駿河国持船城主として、武田水軍となっている。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると徳川家康に召し抱えられている。
  • 向井忠勝の左近将監にちなみ、「将監国広」とも呼ばれる。

来歴  

  • もとは旗本向井忠勝の所持。
    • 向井忠勝が15歳のときに打たれたもので、忠勝の注文打ちではない。
  • のち亀井家に伝来した。
  • 昭和の頃、岡野多郎松氏の所蔵。
  • 昭和33年(1958年)「備山愛刀図譜」では36番目に載る。


「錯凌臘雪辞片岡高嶮帰心得太刀山」  

  • 達磨像の上には「錯凌臘雪辞片岡高嶮帰心得太刀山(鼎印)」という文言が入る。

    錯凌臘雪辞
    片岡高嶮帰心
    太刀山(鼎印)

  • これは聖徳太子の逸話(片岡山伝説、片岡山飢人説話とも)にちなむ。
    • むかし聖徳太子が大和の王子付近の片岡山に遊行した時、路傍で飢えで息も絶え絶えで倒れ伏した人がいた。その横に来ると太子の馬が動かなくなったため、不思議に思って馬から降り、その人に名を尋ねるが答えなかったため、仕方なく食と紫衣(衣服)を与えて去った。斑鳩に帰った後も気がかりで様子を見てこさせたところ、その人が餓死していることがわかったので、墓を立てて供養したという。太子が、あれは凡人ではない真人つまり真の道を体得した人に違いないというので墓を改葬すべく掘り返したところ、遺骨は消え失せ、頂いた紫衣のみが棺の上に載せてあったため、あれは達磨大師であったという付会がなされた。
      奈良県王寺町-飢人伝説(きじんでんせつ)
      片岡山とは、奈良県北葛城郡の王寺村、志都美村、上牧村を指す。現在の行政区域では、王子町、香芝市、上牧町に跨っている。
  • "臘雪"は太子の遊行が12月であり、降る雪の意味。"帰心"は達磨大師の遺骨が消えていたのはインドへ帰る意志があったためとする。"太刀"はこの脇指ではなく大刀の環の略で、還るの隠語とする。「太刀ヲ得ルノ山」とは帰心できた山、つまり片岡山を意味する。




向井忠勝  

  • 向井忠勝は御船手奉行であった向井正綱の子。
  • 父正綱とは別に相模・上総国内に500石を拝領し、御召船奉行として下総国葛飾郡堀江(現在の千葉県浦安市)に陣屋を置いた。順次加増され、父の死後は遺領と合わせ5千石を領した。寛永2年(1625年)には相模・上野合わせて6千石を拝領している。
  • 造船の名手でもあり、寛永9年(1632年)家光の命で史上最大の安宅船である御座船「安宅丸」(天下丸)の建造を指揮、また伊達政宗が支倉常長をローマに派遣した際の南蛮船「サン・フアン・バウティスタ号」の製造の際には、ウィリアム・アダムスとともに石巻まで出向いている。
  • 忠勝以降、向井家は9代に渡って左近衛将監と舟手奉行を世襲し、「向井将監」として江戸湾の警護や幕府水軍の維持に努めた。
  • 江戸の八丁堀霊岸島に江戸屋敷を拝領し、「将監番所」と呼ばれ亀島川沿いの河岸は「将監河岸」なる地名で明治時代末期まで正式な地名となっていた。