逸見竹貫斎義隆(刀工)
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逸見竹貫斎義隆(へんみちっかんさいよしたか)
江戸末から明治の刀工、工芸家
逸見義隆、逸見東洋
逸見竹貫斎源義隆
号 東洋、逸東洋、三猿斎、竹貫斎、呑象、逸見象など
生涯
- 弘化3年(1846年)10月、刀商藤兵衛の子として岡山下之町に生まれる。
- 通称大吉、号東洋。
- 幼少時より刀剣に親しみ、文久2年(1862年)15歳で京都に上り、天竜子正隆(尾崎助隆の孫、長門守正隆)に学ぶ。
- 元治元年(1868)に岡山に帰郷、自宅に鍛冶場を設けて備前伝を鍛えた。
- 銘は「逸見大吉義隆」、「竹貫齋義隆」、「備州岡山住逸見竹貫齋義隆」
- 幕末から明治にかけての第一の名手とされ、「明治正宗」とまで呼ばれた。
- しかし明治9年(1876年)に廃刀令が出されると刀鍛冶を廃業する。鍛刀期間が短いため、作刀は極めて少ない。
- 羽黒神社蔵
- 銘「備前国岡山住逸見竹貫斎源義隆二六才刳物同作/備中国甕江郷社於羽黒大神御前謹作之 明治二二年冬十一月吉日」 刃長106cm、反り3cm。刀身表に篆書で「禍事者追伏阪之御尾亦追撥河之瀬」、裏に「珠追い双竜」を肉彫り。平成9年(1997年)3月25日岡山県指定工芸品。羽黒神社所蔵(倉敷市、原則非公開)
大太刀 銘義隆
大太刀 銘 義隆/文化財保護課/倉敷市 - 太刀
- 兄との合作で大正4年に大正天皇に献上したもの。
名工
- 逸見義隆が偉人とされるのは、刀工にとどまらず金工、砥ぎ、鞘師としても一家をなしうる技量を見せ、さらに木彫や竹細工、漆芸(堆漆、堆朱、堆黒)、書道、蒔絵、謡曲、琴、三味線、茶道、華道、柔術、弓術など諸工芸、芸能、武術において秀でた才能を持っていたためである。
- 逸見東洋の名で数々の工芸品を残しており、明治28年には蟹の置物(木彫)で第4回内国勧業博覧会一等賞金牌、明治43年には堆朱食籠を明治天皇に献上している。
- 塗りに2年、彫りに4年の月日を費やした「風神雷神図堆朱盆」(明治44年作、林原美術館所蔵)は、堆漆の最高峰とも呼ばれる。
堆漆(ついしつ)とは、堆朱・堆黒・堆紅など、漆を厚く塗り重ねて文様を彫り込んだものの総称。堆朱は朱漆を用いて何回も塗り固めることで層を作り、さらにこれに彫りを付したものである。剔紅(てきこう)と呼ばれて中国宋代に流行し、日本には鎌倉時代に伝来した。
- 大正9年(1920年)12月、岡山で没。享年79。
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