血吸剣
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血吸いの剣(ちすいのけん)
短刀
銘 重次
伝 弘法大師作
刃長六寸二分五厘
- 島津家「御納戸御道具之事」
御剣
一振 血吸剣、弘法大師作、重次、長六寸分半
但弘法大師作とハ申伝ニ而中心に重次と銘有之
右弐行藤野恕世より差上候
藤野恕世とは、島津氏14代当主勝久の長男の島津修理大夫忠康の次男という。はじめ僧となり「正円」と名乗っていたが、島津義久の命により還俗して藤野秀久を名乗るが、後に再び出家して「恕世」を号したという。永禄10年(1567年)生まれ、承応元年(1652年)没。「右弐行」とは、「御納戸御道具之事」において、「般若剣」に続いて本刀「血吸剣」が書かれており、両剣を藤野恕世が献上したという経緯を示す。後述。
- 中心に「宝剣」と金象嵌。
- 鎺、切羽、鍔、縁頭、鯉口、逆輸、小尻、目貫はすべて金無垢。鞘は金梨地という豪華なものであったという。
来歴
- 島津家14代の島津勝久は、11代当主島津忠昌の三男ではじめ頴娃氏の名跡を継いでいた。
〔奥州家〕 島津忠昌─┬忠治 ├忠隆 └勝久──忠康─┬良久(正円) ┗━━貴久 ├藤野秀久(恕世) └亀山忠良 〔伊作家〕 島津忠良─┬貴久─┬竜伯義久────亀寿 日新斎 └忠将 ├維新義弘───┬久保 ├歳久 │ └中務大輔家久 │【薩摩藩】 └中納言家久──光久──綱久──綱貴──吉貴 【島津宗家】 11代忠昌─12代忠治─13代忠隆─14代勝久─15代貴久─16代義久─17代義弘─18代忠恒(家久) 【薩摩藩主】 初代忠恒(家久)──2代光久──3代綱貴──4代吉貴──5代継豊
14代島津勝久
- 兄にあたる忠昌長男の12代島津忠治は永正12年(1515年)に陣没、次男の13代島津忠隆は永正16年(1519年)に死去。これら兄達の死により三男の勝久が16歳で宗家を継いだが、権力基盤は脆弱であった。
- 分家薩州家の島津実久からの横槍が続く中、大永6年(1526年)には有力分家である伊作家の日新斎島津忠良(伊作忠良)の長子、島津貴久を養子に迎え、伊作に隠居する。
復権
- しかしこれに反発した薩州家の島津実久が15代の貴久を追い落とし、再び勝久を守護に据える。諌める一族の説得を聞き入れず、勝久は島津一族を敵に回してしまう。
- 天文3年(1534年)に寵臣を殺害され、翌天文4年(1535年)に島津実久に薩摩を追われると、島津勝久は母方(大友政親の娘)の大友氏を頼り、豊後へ亡命した。
勝久死後
- 天正元年(1573年)10月15日に勝久が豊後で客死すると、勝久の孫である秀久は剃髪して恕世と称し、日向庄内松山の蓮華院住職となった。
- このとき、出家の身に刀は不要であるとして、祖父勝久より相伝した三刀を島津貴久の子、16代当主義久に贈っている。
- 刀は、本刀(血吸剣)のほか、八幡住の太刀、般若の剣、宗近の太刀などであったという。
御太刀
一腰 青江恒元作、八幡十間切物有 長弐尺五寸壱部半
但藤野恕世より差上候
御脇差
一腰 宗近作、長弐尺八寸弐部
但藤野恕世より差上候
御剣二振
一振 般若剣、波平行安作、長五寸八部
但太夫判官宗久公御袖刀
一振 血吸剣、弘法大師作、重次、長六寸分半
但弘法大師作とハ申伝ニ而中心に重次と銘有之
右弐行藤野恕世より差上候
- その後は島津家の重宝となる。
- 太平洋戦争の際に焼失。
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