若狭貞宗


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 若狭貞宗(わかささだむね)

脇差
長一尺

 由来

  • 不明
  • 「加賀貞宗」とも。

 来歴

  • 江戸時代初期に、薩摩島津家にあった相州貞宗の脇差。
  • 慶長14年(1609年)3月、薩摩藩島津家は琉球に侵攻している。

    この日島津が軍兵琉球の都城を攻破り。中山王尚寧を生擒せしとぞ。

  • 尚寧王はこれに対して降伏し、尚寧王は江戸まで連行され、翌慶長15年(1610年)8月に将軍秀忠に謁見し、後に琉球に戻っている。
  • この謁見の時、島津家久は貞宗の大小を拝領しており、このうち脇差の方が「若狭貞宗」ではないかとされている。

    十八日島津陸奧守家久并に中山王尚寧を駿城に召し饗宴を開かれ。猿樂をみせしめらる。樂は加茂。八島。鞍馬天狗。源氏供養。老松なり。家久御盃を給ふ時。貞宗の御刀御脇差を下さる。
    (徳川実紀)

    家康公、御喜悦ありて、中山王・家久を饗し給ひて、猿楽あり。家久に、貞宗の刀・同作の短刀を與へらる。
    (関原軍記大成)

    • 島津家譜にも同様の記事あり。
  • しかし翌月9月16日に就封の挨拶をしており、その際に「加賀貞宗の御刀」を拝領している。こちらが正しいと思われる。

    十六日島津陸奧守家久登營して。就封のいとまたまひ饗せられ。加賀貞宗の御刀ならびに御馬を下され。そのうへ櫻田にて宅地をたまふ。中山王を歸國せしめてのちは。かの國に監使を置て。政令をほどこし鎭撫すべしと面命せらる。
    (徳川実紀)

    十六日致登城御饗應之上加賀貞宗之御腰物幷御馬致拝領且亦櫻田屋鋪を被下直に御暇を給り同廿日江戸を發し
    (島津家譜)

    九月三日將軍 家久公ヲ營ニ召テ盛饌ヲ給ヒ茶亭ニ召テ自茶ヲ給フ 同月七日又召ニ應シ 家久公尚寧ヲ卒テ營ニ登ル 同月十二日獨 家久公ヲ營ニ召シ十六日宴ヲヒラキ歡ヲツクシ二刀加賀貞宗 於太長光二馬及ヒ邸地ヲ府下櫻田フ幸橋門ノウチニ給且尚寧ヲ卒ヒ國ニ歸ル「ヲ免サル於是江戸ヲ發シ同月廿日家久公ハ岐岨路ヲ經尚寧ハ東海道ヲ過キ薩州ニ歸ル尚寧ガ罪ヲ救ルシ琉球國ノ内八萬九千余石ヲ給フテ國ニ歸ラシム
    (西藩野史)

  • その後の行方は不明。


 尚寧王(しょうねいおう)

  • 琉球王国第二尚氏王統第7代目の国王。
    • 第二尚氏の王統は、第一尚氏の尚泰久王の重臣であった金丸が尚泰久王の子尚徳王にかわって王位に就き、尚円王と名乗ったことから始まる。
  • のち第8代の尚豊王は、「琉球国王」の王号を薩摩藩から剥奪され、琉球国司を名乗る。

 他の島津家久拝領刀剣

  • 島津家譜
  • 慶長4年(1599年)正月3日

    権現様義弘伏見之宅に被爲入、高麗帰朝之祝儀を被仰二字国俊之御腰物御吉例之御腰物たる間被下候旨、上意にて兵庫頭致拝領、長光之御腰物又八郎頂戴仕候

  • 慶長4年(1599年)正月9日

    権現様御意にて義弘父子高麗軍忠之御感状被成下候、正宗之御腰物幷知行五万石義弘拝領仕候、長光之御腰物忠恒頂戴仕候、且亦被任少将旨被仰出候

  • 元和2年(1616年)4月朔日

    台徳院様より吉光之御腰物家久拝領仕候

  • 元和2年(1616年)4月8日

    権現様御不例(略)何れも御腰物御脇差拝領仕候家久にハいや正宗之御脇差を被下

  • 元和3年(1617年)7月18日

    台徳院様御執奏によりて家久宰相に任し且亦吉光之御腰物長大仕候

  • 元和3年(1617年)9月朔日

    家久に松平氏を被下御口つから薩摩守に被仰付候其時貞宗之御腰物長大仕候

  • 元和7年(1621年)2月4日

    家久御暇被下候刻御脇差幷銀五百貫目拝領仕候

  • 寛永7年(1630年)4月18日櫻田邸に御成

    家久か櫻田之宅へ大猷院様御成被遊候拝領品々別紙に書付差上候同廿一日台徳院様渡御拝領物同断

家光より
  • 家久:正恒太刀正宗の雄刀
  • 忠元:太刀國光ノ刀
  • 又十郎久直:行光ノ雄刀 ※北郷久直
  • 越後守忠紀:雄刀 ※島津忠紀 (垂水家)
献上

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