花の御所

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花の御所(はなのごしょ)  

室町殿、室町第
足利将軍家の将軍邸宅の別名

  • 元は羽林家の室町家の邸宅があった場所に、3代将軍義満の代に造営されたもので、その後も代替わりごとに引き継がれたが、やがて荒廃していった。
  • 室町通に面して正門が設けられたことから室町殿、室町第とも呼ばれた。
Table of Contents
【足利将軍歴代】
尊氏─義詮─義満─義持─義量─義教─義勝─義政─┐
                        │
┌───────────────────────┘
└─義尚─義材─義澄─義稙─義晴─義輝─義栄─義昭


【足利氏】
貞氏─┬尊氏─┬義詮─┬義満─┬義持──義量
   │   │   │   │
   │   │   │   │【鞍谷公方】
   ├直義 ├直冬 └満詮 ├義嗣──嗣俊
   │   │       │
   └高義 └基氏     └義教─┬義勝
        【鎌倉公方】     ├義政───義尚
                   ├義視──┬義稙
                   │    └義忠
                   │【堀越公方】        ┌周暠
                   └政知──┬茶々丸      ├義昭
                        └義澄──┬義晴──┴義輝
                             │
                             │【平島公方】
                             └義維──┬義栄
                                  └義助

足利将軍家御所  

初代尊氏  

  • 後醍醐天皇と対立して京都に武家政権を開いた足利尊氏は、北朝を後見するため二条高倉に住んでいた。尊氏は各地を転戦していたこともあり、また焼失するなどしたため住居を転々と変え、最後は二条万里小路第で死んでいる。

直義(尊氏弟)  

  • いっぽう尊氏の弟である直義は、三条高倉殿(三条殿・高倉殿)を邸宅としており、実質的な御所となっていた。

2代義詮〔鎌倉→三条高倉殿→三条坊門第〕  

  • しかし貞和5年(1349年)に直義が失脚して出家すると、三条高倉殿には鎌倉から京都に呼び戻された足利義詮(後の2代将軍)が住むことになった。
  • 尊氏の死後、元の三条高倉殿の東隣三条坊門第に新しく造営し、邸宅としている。
    元の三条高倉殿には、その後、直義の霊を祀ることと新しい三条坊門殿の鎮守としての目的を有した御所八幡宮が造営された。なお御所八幡宮は、太平洋戦争中に現在地である御池通高倉に移っている。
  • 貞和5年(1349年)に高師直兄弟により襲撃され出家し、慧源と号した際には錦小路堀河の細川兵部大輔顕氏の館に入っている。

室町家別邸  

  • 花の御所は、元は室町家の邸宅があった場所に建てられた。
    元々、北小路近辺には西園寺家の本邸である今出川殿を中心として、その一族が住していた。北小路室町には、今出川家の始祖である今出川兼季(菊亭家。7代西園寺実兼四男)の邸宅〔菊亭〕と、室町家の始祖である室町実藤(4代西園寺公経の四男)の邸宅〔花亭〕が隣接していた。

    室町家
    室町家は、閑院流西園寺家の一門で羽林家の家格を持つ。のち「室町殿」と称された将軍家を憚って四辻家を名乗った。江戸時代初頭には、四辻公遠の娘・与津子は後水尾天皇の典侍となり、天皇の寵愛を受けて皇子(夭折)と皇女(後の文智女王)を儲けている。また与津子の姉桂岩院は上杉景勝の継室となり、嗣子定勝(米沢藩2代藩主)を産んでいる。
  • 足利義詮は、室町季顕(室町家6代)からその邸宅である花亭を買上げて別邸とし、のち貞治6年(1367年)の義詮の死後、足利家より崇光上皇に献上された。
    崇光天皇は在位正平3年(1348年)10月~正平6年(1351年)11月。観応の擾乱の中で京都から直義派を排除することに成功した尊氏は、直義と南朝の分断を図るべく和議を提案し、これが受け入れられたことで11月7日に崇光天皇と皇太子直仁親王は廃された(正平一統)。のち北朝と足利氏の勢力一掃を画策する南朝方により北朝の光厳・光明・崇光の3人の上皇と皇太子直仁親王は拉致され、吉野へと連れ去られてしまう。しかし南朝方が衰微して講和に傾くと、延文2年(1357年)上皇らは帰京した。直仁親王への譲位を画策するも皇位が戻ることはなく、後光厳天皇の系統である後円融天皇、後小松天皇と継承され、応永5年(1398年)、失意のうちに死去した。しかし後小松の次の称光は子が早世するなどしたため、結局は崇光の曾孫に当たる彦仁王(後花園天皇)が即位している。

崇光上皇御所「花の御所」  

  • 崇光上皇の御所となったことにより、花亭は「花の御所」と呼ばれるようになったが、永和3年(1377年)に火災が起こり、花亭および菊亭なども焼失した。

3代義満〔三条坊門第→室町殿→北山殿〕  

  • 3代将軍となった足利義満は、当初は父義詮から引き継いだ三条坊門第を御所としていたが、永和4年(1378年)に北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直(今出川家3代)の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地(東西1町、南北2町)に足利家の邸宅の造営を始める。
  • 同年3月、元の菊亭部分の南殿が完成すると、義満は直ちにそれまでの三条坊門第から移住した。その後も工事は続けられ、翌康暦元年(1379年)には北殿(寝殿)が作られ、永徳元年(1381年)に「花の御所」は完成している。
    室町殿
     足利将軍を「室町殿」と呼ぶ(ひいては室町幕府と呼ぶ)のはその邸宅が室町にあったためだが、3代義満に到るまでは室町に邸宅を構えたことがなかったことになる。そのため、「室町殿」と呼ばれたのは義満が初めてである。また以下に見るように、この後の将軍も住居としての室町殿(花の御所)に定住したわけではなく頻繁に居宅を移している。ただし将軍職として実権を握っている者が室町殿と呼ばれることはこの後定着し、必ずしも室町殿(花の御所)に住んでいなくとも「室町殿」と呼ばれることとなる。室町殿(花の御所)は実質的には、義満により造営された永和4年(1378年)~文明8年(1476年)に戦火で焼けるまでの間使用されたことになる。
     室町第に移る前の義満を含む3代は「鎌倉殿」「鎌倉将軍」などと呼ばれている。なお源頼朝も征夷大将軍であった時期は2年間と短く、実際には「鎌倉殿」の名を持って呼ばれている。建久10年(1199年)に頼朝が急死した後に「鎌倉殿」を継いだ源頼家も、征夷大将軍に任じられたのはその3年後の建仁2年(1202年)である。
  • 翌永徳2年(1382年)には、北東に相国寺が創建され、三条坊門第の側にあった等持寺と並んで足利氏の菩提寺としての役割を果たした。
  • 義満は、応永元年(1394年)に将軍職を息子の足利義持に譲ると、応永4年(1397年)に義満は西園寺家から譲り受け新築した地に北山第(現鹿苑寺)を造営して移っている。しかし実権は未だに義満が握ったままであった。
    北山と西園寺
     この北山の地は、西園寺公経が夢に見た源氏物語の舞台である北山近くの地を尾張松枝の地と交換で入手し、広大な山荘を営んだことに始まる。なお「西園寺」の名は、公経が元仁元年(1224年)に北山の地に建立した西園寺にちなむ。
     西園寺公経は北家閑院流の出で、さらに源頼朝の姉妹である坊門姫と一条能保の間に生まれた全子を妻としていた関係から鎌倉幕府と親しく、外孫である藤原頼経(坊門姫の曾孫)を4代将軍として送り込んだ中心人物である。それに加えて、孫の大宮院姞子が後嵯峨天皇の中宮となって亀山・後深草の両天皇の生母となり、さらにのち広義門院寧子が後伏見天皇の女御となって光厳・光明の両天皇の生母となったこともあり、公経後裔の西園寺家は、鎌倉時代を通じて武家伝奏(鎌倉取次)として摂関家を凌ぐ実力を誇った。
                   【大覚寺統】        ┌後醍醐天皇
                   ┌亀山天皇───後宇多天皇─┴後二条天皇
                   │
             後嵯峨天皇 │【持明院統】
               ├───┴後深草天皇──伏見天皇─┬花園天皇
    西園寺公経      │                └後伏見上皇                            ┌貞常親王(伏見宮家)
      ├─┬実氏─┬西園寺姞子(大宮院)            ├──┬光厳天皇──┬崇光天皇───栄仁親王───貞成親王──┴後花園天皇
    一条全子│   └西園寺公相──西園寺実兼──西園寺公衡   │  └光明天皇  └後光厳天皇──後円融天皇──後小松天皇──称光天皇
        │                    ├──┬西園寺寧子(広義門院)
        └西園寺掄子             藤原兼子 └西園寺実衡───西園寺公宗
           ├───┬九条教実                       ├───西園寺実俊
         九条道家  ├二条良実            ┬日野資名───┬日野名子
               └藤原頼経            └三宝院賢俊  └日野時光─┬日野資教
                                              ├日野業子(足利義満室)
                                              └裏松資康──┬日野重光
                                                     ├日野康子(足利義満室)
                                                     └烏丸豊光
    
    
  • 応永15年(1408年)には北山殿に後小松天皇の行幸があり、義満は天皇を迎える会所に唐物を飾り付け、室礼がなされた。

    西東二所にござしきをまうけられて、くさくさのたから物數をつくしてたてまつり給、からゑ、花びん、かうろ、びゃうぶなどのかざりはつねのことなり、から國にてだにもなおありがたき物どもを、ここはとあつめられたれば、めもかかやき心もことばもおよばずぞありける

4代義持〔室町殿→三条坊門第〕  

  • 義満と不和であったとされる義持は、応永15年(1408年)に父義満が死ぬと、翌応永16年(1409年)には祖父義詮の先例に倣って三条坊門第を再興して移り住んでいる。
  • 応永30年(1423年)3月18日に嫡子の義量に将軍職を譲り、同4月25日等持院で出家する。実権は保ち続け、2年後に義量が19歳で急死した後も権力を握り続けた。
  • 義持は禅宗に傾倒し、三条坊門第には禅院に倣って相府十境が定められた。建物や庭園に、勝音閣、覚苑殿、安仁斎、嘉会、養会、探玄、要関、悠然亭、湖橋、蘸月池などの名が付けられた。
  • 応永35年(1428年)1月、義持は尻にできた腫れ物が悪化するが世継ぎを決めなかったため、その死後籤を引き弟の義教が継ぐこととなった。

6代義教〔三条坊門第→室町殿〕  

  • 6代将軍になった義持同母弟の義教は当初三条坊門第に住んでいたが、永享3年(1431年)になって義満の先例に倣うとして今度は室町殿(花の御所)を再興して移り住んでいる。
  • 義教の時代の室町殿は、寝殿、小御所、北向会所(泉殿)、南向会所、観音殿、持仏堂、月次檀所で構成されていた。
  • 永享9年(1437年)、後花園天皇は室町第に行幸しており、この際の座敷飾りが能阿弥により「室町殿行幸御飾記」に記される。
  • 幕府の権威を復興した義教だったが、嘉吉元年(1441年)に赤松教康の邸に御成したところを襲われ暗殺されてしまう。

7代義勝〔室町殿〕  

  • 跡を継いだ嫡男の義勝は当初政所執事伊勢貞国の屋敷で養育されていたが、父の死に伴い室町殿に移され、翌嘉吉2年(1442年)にわずか9歳で家督を継ぎ7代将軍となる。
  • しかし8ヶ月後の嘉吉3年(1443年)7月に急死してしまう。

8代義政〔烏丸殿→室町殿〕  

  • 父、兄の死により、わずか8歳で8代将軍になった足利義政は、母方の一族である烏丸資任の邸宅で育てられていたが、資任の邸宅をそのまま烏丸殿と称して居住し、室町殿・三条坊門第のどちらにも入らなかった。
  • 室町殿は早世した7代将軍足利義勝(義政の兄)が死去した場所であったことから、はじめは義政の御所を室町殿ではなく三条坊門第に移すことにしていたが、諸大名の反対により室町殿に変更された。

    時ノ將軍義政公ハ去ル長禄三年二月花ノ御所ヲ作リ是ヲ御テウアイ有

    尊氏以来、守護や幕臣たちは将軍の居宅の周囲に住むことが求められ、将軍が居宅を変えると彼らも屋敷を移転させていたが、ここにおいて守護達は下京にある三条坊門第よりも烏丸殿と同じ上京にあり、自分達の屋敷を移転させる必要性の無い室町殿を望んだことによる。

  • また成長した義政も父・義教に倣って室町殿に住むことを希望したことによって守護達の考えを結果的に追認している。その結果、義政は室町殿(隠居後は東山殿)へと移り住み、三条坊門第は用いられることなく、荒廃していった。

応仁の乱  

  • 応仁の乱が始まると、後花園上皇と後土御門天皇が戦火を避けて花の御所に避難したために、急遽仮の内裏としての設備が整備されて天皇と将軍が同じ邸内で同居する事態となっている。
  • 文明5年(1473年)、義政は隠居して義尚へと将軍職を譲っている。

9代義尚〔室町殿→小川殿〕  

  • さらに文明8年(1476年)に室町殿が戦火で焼失すると、義政は東山殿へと移り、正室日野富子と将軍義尚は細川勝元の別邸であった小川殿へと移っている。
    • ただし文明13年(1481年)6月、に室町殿にて作事の記事がある。

      文明十三年六月五日室町花御所御作事始被立御木屋

  • 長享3年(1489年)に義尚が六角討伐の陣中で死んだため、義政は政務への復帰を決意するが日野富子の反対に会い、さらに中風に倒れたこともあって美濃の土岐成頼の下に亡命していた義視と和睦し、義視の嫡男で甥の義材(のちの義稙)を自らの養子に迎え10代将軍に指名し後事を託した。
  • この頃を最後に、足利将軍家が室町第を居宅とすることは絶えてしまう。

10代義稙〔一条御所→各地〕  

  • 義材→義尹→義稙と名を変えている。
  • 細川阿波家邸である一条御所を居宅としている。
  • 前管領・畠山政長と協調して権力の確立を目指すが、細川政元・日野富子・伊勢貞宗らにクーデターを起こされて龍安寺に幽閉されてしまう(明応の政変)。
  • 小豆島へ流されることを知った義稙は、京都を脱出して畠山政長の領国である越中国放生津へ下向し、越中公方(越中御所)と呼ばれた。
  • のち越前、近江坂本、河内、周防と転々とした後、大内氏の援助を受けて堺に上陸、京都へ復帰する。この頃は三条坊門第の南に三条御所を開いたとされる。
  • しかし大内氏が帰国すると細川澄元らに追われ堺、淡路へと下向し、阿波国撫養で死んでいる。

11代義澄〔細川政元邸〕  

  • 明応2年(1493年)に従兄の10代将軍義稙(義材)が細川政元によって追放されると、11代将軍として擁立される。しかし大内氏が上洛軍を起こすと近江に逃れて将軍職を解かれ、そのまま死去した。

12代義晴  

  • 永正8年(1511年)、父義澄が近江に逃れているときに蒲生郡水茎岡山城で生まれ、同年中に父が死ぬと播磨守護・赤松義村の庇護下で養育された。
  • 永正18年(1521年)、管領・細川高国と対立した義稙が京都を出奔したために細川高国により京都へ招かれ、元服の後12代将軍となっている。
  • 大永7年(1527年)に桂川原の戦いで細川高国が破れると、義晴は近江に逃れた。その後、朽木へと移り、さらに近江の観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移している。京都と近江を転々とした後、天文15年(1546年)に舎利寺の戦いで敗れると近江坂本に避難し、日吉神社(日吉大社)の祠官である樹下成保の邸で嫡男菊童丸を元服させて「義藤」(後の義輝)と名乗らせ、翌20日には義輝に将軍職を譲り隠居した。最後は近江穴太で死去。

    日吉ノ樹下成保ノ宅昔ハ皇居例有トテ御殿ニ被用十二月九日進藤山城守貞治ヲ差上普請アリ數十箇年破壊シケルヲ不日修造アリテ

13代義輝〔二条御所武衛陣〕  

  • この間、室町殿は何度か小規模なものながらも再建が繰り返されていたが、永禄2年(1559年)、13代将軍足利義輝が三管領家の斯波武衛家邸宅跡に「二条御所武衛陣」を造営・移転したために廃止された。
  • 永禄8年(1565年)5月19日、義輝は松永久通と三好三人衆に攻め寄せられ落命する(永禄の変)。
  • 変後、真如堂がこの地に移され、永禄10年(1567年)2月には真如堂で義輝追善の六斎踊が挙行され、摂津や近江坂本から集った2800人が鉦鼓を鳴らし、貴賤を問わず男女合わせて7、8万人の群衆が参加してその死を悼んだという。
    現在、平安女学院中学校・高等学校がある一帯。室町通沿いに足利義輝邸跡の石碑(此付近斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址)が残る。

    真如堂(真正極楽寺)はその後移転を繰り返し、現在は左京区浄土寺真如町82にある(金戒光明寺の北)。

14代義栄  

  • 永禄の変後、次期将軍職を巡って、都周辺を制圧している三好・松永氏の推す義栄と、越前朝倉氏の推す義昭(義秋)とが争うこととなった。永禄9年(1566年)4月に義昭を従五位下左馬頭に任命したものの、朝倉氏が一向一揆の対策に追われる中、朝廷は両者に一万疋(百貫)の銭貨の献金を将軍就任の要件として求めた。
  • これに対して先に応じたのが義栄で、永禄11年(1568年)2月に摂津富田にて将軍宣下を受ける。しかし入京できる状況になくとどまっている間に同年9月、義昭を擁する織田信長が入京。義栄は阿波に逃れたものの間もなく病死した。

15代義昭〔本圀寺→二条御所(旧二条城)〕  

  • 15代足利義昭は、永禄11年(1568年)に信長に奉戴されて上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けてしまう(本圀寺の変)。

    公方様ハ六條ノ本圀寺トテ法華宗ノ大寺アリ彼寺ヲ御所ト定ラレ御移リト聞エシ

  • この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をする。

    將軍義昭公六條の本圀寺に御坐在しに三好等の亂有し後、信長室町の御所を造営し奉る

  • 場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に、北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造邸宅(旧二条城)を築いた。
    足利義輝邸遺址の北西25mほど。「旧二條城跡」の石碑と平安女学院による説明板が残る。

    永禄12年(1569年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍御所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三十の「天主」を備えた堅固な城を築いた。

  • 信長と義昭との関係が悪化し、槇島城の戦い後に追放されると、旧二条城に残った天主や門は天正4年(1576年)に解体され、安土へ運ばれ築城中の安土城に転用された。

その後  

  • 安土桃山時代には、現在の京都御苑の北半分に公家町が形成された。戦乱の時代が終わり諸国に避難していた公家たちが戻り始めると、それだけでは手狭となり、南部や烏丸小路以東、北小路(今出川通)以北にも公家町は広がりを見せる。
  • 江戸時代には花の御所(室町殿)がかつてあった敷地に、公家の裏辻家と錦織家が設立された。ただし大通りである今出川および室町通に面しては、商いを営む奥行きの浅い町人の町屋があったようである。
  • 現在は、上京区室町通今出川上ル東側に石碑が残るばかりである。

    従是東北 足利将軍室町第址

関連項目