窪田清音
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窪田清音(くぼたすがね)
江戸時代の旗本・兵学者・武術家
幕府講武所頭取・兵学師範役
生涯
- 窪田清音は、幕臣窪田助左衛門勝英の子として寛政3年(1791年)に生まれる。
- 通称助太郎、源太夫、助太夫。
- 父勝英は二百石取りの小身ながら、田宮流居合術、関口流柔術、中島流砲術の師範であった関係から、清音は幼少時から仕込まれ、ついには師範となったという。さらに外祖父の黒野義方(旗本、兵学者)から山鹿流兵法および吉富流居合を伝授されている。
窪田氏は元は甲斐武田氏の旧臣であるという。一時、信州小室(小諸)に住し、小室坂姓を名乗ったこともあるとされる。武田氏滅亡後は徳川氏に仕え、寄合(旗本)となった。
- 父勝英は二百石取りの小身ながら、田宮流居合術、関口流柔術、中島流砲術の師範であった関係から、清音は幼少時から仕込まれ、ついには師範となったという。さらに外祖父の黒野義方(旗本、兵学者)から山鹿流兵法および吉富流居合を伝授されている。
- 文化10年(1813年)23歳の時には、芸術出精を賞せられ大御番士に登用される。
- 武術では、宝蔵院流槍術(鈴木大作門人)、無辺夢極流槍術(和田孫次郎門人)、小笠原流弓術(小笠原館次郎門人)、日置流弓術(土井主税門人)、大坪流上田派馬術(浅井金兵衛門人)、外記流砲術(井上左太夫門人)、能島流水軍(小島元八門人)を習得、皆伝した。
- その他、甲州流軍学(都築勘助門人)、越後流軍学(松本三甫門人)、長沼流軍学(斎藤三太夫門人)を習得している。
- さらに伊勢流武家故実(本多忠憲門人)、国学(加藤千蔭門人)、和歌、書(岡田真澄門人)を学び、師範免許を得ている。
- 兵学門人は諸侯、旗本以下3000人余、剣術門人は600人余に達したという。
- 天保7年(1836年)の弓矢鑓奉行を始めとして、天保12年(1841年)には御広敷番頭、御納戸頭へと累進する。
廣大院殿廣敷番之頭窪田助太郎納戸頭となり。
門人育成と著述
- 天保12年(1841年)、得意の田宮流居合を12代将軍徳川家慶に上覧したことをきっかけに、窪田派田宮流の名が広まり、全国から門人が集まった。
- しかし翌天保13年(1842年)御納戸頭の職位にある時に、天保の改革原案作成をめぐり羽倉外記簡堂と論争を起こし、水野忠邦によって御役御免とされてしまう。
五日、納戸頭窪田助太郎病免して寄合となる
- 寄合席に編入された清音は、門人育成と古伝の著述に力を注ぎ、「山鹿伝采幣伝授」「剣法略記」「形状記」をはじめ兵書50部、剣法38部、水軍2部、砲書3部、雑書11部、武家故実類書13部など生涯で130部を著し、兵法、武家故実の研究家、武術家として大きな業績を挙げた。
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 鑑刀集成 : 諸家秘説
「刀味記」、「刀装記」、「剣法形状本義」、「ねたばの記」所収
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 武術叢書
「剣法略記」所収
講武所頭取
- その多芸多才ぶりは江戸に鳴り響き、幕府は安政2年(1855年)に講武所(当初は講武場)を建てた際に清音を幕府講武所頭取兼兵学師範役に任命し、これを安政5年(1858年)まで3年余り務めている。その後は御留守居番。
十二日御役替壹人有之。」講武所御創建之儀取調候ニ付。拜領物六人。」被召出儒者被仰付者壹人。
一、巻物五づゝ
勤仕並寄合
窪田助太郎
- 少禄ながら高禄相当職を命じられたために、困窮しているとの書状が残っている。
- 慶応2年(1867年)12月25日、77歳で没。
源清麿
- 窪田清音は、「江戸三作」「四谷正宗」と称された源清麿の師匠となっている。
- 信州松代藩に柘植嘉兵衛という長巻術の師範がいたが、これが清音の門人であったのか、そのつてを頼って清麿の世話を頼んだとされる。
- 清音は清麿を様々な面で援助し、清麿はこの厚恩に謝して「為窪田清音君 山浦環源清麿製 弘化丙午年八月日」という2尺6寸の刀を贈っており、後に伊東巳代治所持となり、重要美術品認定。
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