石川五右衛門
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石川五右衛門(いしかわごえもん)
安土桃山期に実在した大盗賊。
~文禄3年(1594年)8月24日
伝承
- 百地三太夫(百地丹波)の弟子となり伊賀流忍術を学んだという。三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したとの伝承が知られている。
- 一説に三好氏の臣・石川明石の子で、体幹長大、三十人力を有し16歳で主家の宝蔵を破り、番人3人を斬り黄金造りの太刀を奪い、逃れて諸国を放浪し盗みをはたらいた。
- 文禄3年(1594年)豊臣秀吉所持の「千鳥の香炉(青磁香炉銘千鳥)」を盗もうとして聚楽第に忍び込んだ際、香炉の千鳥が鳴いたために捕まったという。
- 腹に据えかねた秀吉は、三条河原にて大釜に油を満たして熱しその上で五右衛門を放り込んで釜煎りするという方法で刑に処した。当時、植物油は貴重品であり非常に贅沢な処刑方法であった。最期に秀吉が言い残すことはないかと問うたところ、詠んだものが辞世の句と伝わる。
石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ
最期
- その最期が各種記録に登場する。
- 山科言経の日記「言経卿記」文禄3年8月24日(1594年10月8日)の条
盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり
- 安土桃山期に日本に滞在したスペイン人貿易商アビラ・ヒロン(ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン)の「日本王国記」に次のように記載されている。
かつて都(京都)を荒らし回った盗賊がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で釜茹でにされ処刑された
- この項には当時日本に滞在していたイエズス会宣教師ペドロ・モレホンによる注釈がある。
この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった
石川五ェ門
- 石川五右衛門から数えて第十三代の末裔石川五ェ門が、アニメルパン三世シリーズで斬鉄剣を所持し活躍する。
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