浮股
浮股信長(うきもものぶなが)
刀
加州信長作
二尺八分半
- 浪股信長(なみもも)、九つ胴とも
- 加州信長作。
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由来
- 戦国末期に伊勢の浜辺で囚人を試し斬りした際、刀を振り下ろそうとした瞬間に囚人が前のめりに突っ伏した。刀は向きを変えて首を打ち落としたが、囚人はむくっと起き上がり目の前の海に飛び込んだ。太刀取りもそれを追って海に飛び込み、海に浮いている囚人の両股を斬り落とした。そのため、浮股、または浪股と呼んだ。
元來勢州ゟ出たり、或時伊勢の海邊ニ而、囚人の首伐可刎との時、太刀取刀を打付候ニ、囚人うつ伏候而縄取を引倒し候へハ、縄取首被討落、囚人ハ前の海へ入て泳行を、太刀取さゝいて飛込、兩股をなくり落ニより、刀の異名を、浮股とも波股とも申候、又胴九ツ同し様ニ切り能落候て、九ツ胴共申候、
- これとは別に、胴を九つ重ねて試し切りを行ったが、それでも切れ味は変わらなかったために「九つ胴」とも呼んだという。
細川家信長 浮股又九胴とも異名あり
刀の異名を、浮股とも波股とも申候、又胴九ツ同し様ニ切り能落候て、九ツ胴共申候、
来歴
入手
- 細川忠興が14・5歳のころにこれを入手し、勝龍寺城においてこの刀で胴を斬り落とした。斬れ味に驚き、その後秘蔵したという。
青龍寺ニ而忠興君御求メ、十四五才ニ而御ためし被成、胴落候而、一入祕藏有し
一色義定殺害
- その後「浮股」は弟・細川興元(幽斎の次男)に与えていたが、妹婿であった一色義定(義有)を宮津城にて殺害した時に忠興はこれを取り戻し、自ら義定を斬っている。
一入祕藏有しを、
頓五郎 殿御所望被成故、被遣しか共、今度御取返し被成候
- 忠興は宮津城に一色義定を呼び出すと、小姓の中島甚之允に「浮股」を持たせておき、忠興と義定が席につくとともに甚之允が浮股を忠興の傍に置いた。しかし抜き打ちにするには位置が悪かったため、近臣の米田宗堅が料理を運ぶ際にわざと袴を引っ掛け、それを直すふりをして抜き打ちにいい位置に戻した。
- その後、一色義定が盃をいただくところを忠興が抜き打ちにし、肩先から脇腹にかけて斬りつけると義定は脇差を抜きかけながら二つに割れたという。
丹後ノ一色ヲ細川三斎妹聟ニ取候テ是ヲ打被申候時ハ振舞之座敷ニテ候、然ルニ三斎之刀置様勝手アシク有之候、中路周防怪我之體ニモテナシ足ニテ踏取直シ置候所ヲ三斎引拔候テ一色ヲ打被申候、彼刀代々細川家ニ相傳候銘ハ信長ト有之二尺一寸余歟
刀ヲハ中路周防フミチラシタル體ニモテナシ取テイタゝキ三斎ノ左ヘナヲシ置タルトモ云右一式義有御討果の御腰物は、信長作長サ二尺八分半計也、
この後日譚があり、その際に使われた刀が「希首座」である。
関白秀次
- その斬れ味が世の噂に上ると、関白豊臣秀次が譲渡するよう申し入れてきた。
後ニも此御腰物きたいの切物と世上へ流布いたし、關白秀次公御所望被成候得共、御斷被仰上候、
- 忠興がこれを断ると、意地になった秀次は「浮股」の寸法などを聞き出した上で加州信長作の同じような刀を探しださせ、居並ぶ大名の前において試し斬りを行わせた。
依之秀次公方々御尋させ、恰好似たる信長の刀を御求出候而、諸大名登城之折節、與一郎所持ニ大方似たる同銘の刀を求め置たり、只今ためさせ、各へ見を可申とて、御庭にて御斬を被成候、忠興君も能切れ候かしと思召、列座の大名衆も氣をつめ御覧有しに、
- しかし大骨も斬れず、秀次は恥をかいてしまう。気の毒に感じた忠興はいっそ献上するかと一度は考えるが、大名たちがいっせいに忠興の顔を見たため、まるで催促されているように感じた忠興は意固地になりついに献上しなかった。
大骨も不越切れ惡く候故、㝡早御所持の刀を可被差上と思召候内ニ、列座の大名衆一度ニ、忠興君の御顔を御覧候ニ付、爰にて御上候へハ、惣様の差圖を御請候にてこそなれと思召候處に、秀次公御座を御立被成候故、御知音の諸將忠興君の御袖を引、是非御上可然由御申候得共、何とやらん上ヶ難き體に成り、たとひ御身體の礙に成る共、上ヶ間敷と思召詰られ候由、
細川家伝来
- 嗣子細川忠利が「浮股」を所望するも、忠興は譲らなかった。しかし寛永11年(1634年)3月8日、嫡孫の細川光尚が烏丸中納言光賢の娘ややとの婚儀が整った際に、この「浮股」を光尚に与えている。そのとき忠興は「これで余も、もう男でなくなった」と落涙したという。
御若年より今まで、御腰をはなされず御秘蔵に思召、忠利様御所望被成候得ども遣はされず、寛永十年烏丸中納言殿光賢卿の御息女於冬様を御孫なれば御養君とし、肥後様(光尚)へ御縁邉の御祝儀相調ひし後、御腰に差させれしを直に肥後様へ進ぜられ、御法軆の御身なれば御腰の物は入せられず候て此刀を進ぜられ候上は、男は御止め候とて御落涙なされ候に付、御座敷に山田古笠法印其外居申したる面々感涙を催し候なり
- 光尚の後、綱利、宗孝と伝えられた。
光尚公、綱利公、宗孝公、当御代御差料也。
- 江戸期には本刀は秘蔵され、大身のものといえど見ることができなかったという。
然るに肥後舊藩時代に於ては此の信長刀は其の係りの人の外、大身の者と雖も容易に見ることを得ざりしかば、眞正の信長刀に付て、之を模冩せしものなかりき、安政年間のことにてもありしか、後藤善左衛門と云ふ人、近習役兼腰物係となり、數腰を作らしめしも、之れは唯鮫鞘に革柄なりしと云ふに止まりき。
善左衛門の後を継ぎし久野熊助と云ふ人も亦此の拵に心を用ひしも、如何にせむ、工匠實物を知らざる故、是亦似て非なるもののみなりき。
- 明治17年(1884年)に細川家にあった本刀を長屋重名が拝見している。
然るに明治十七年頃舊土佐藩士なる陸軍大佐長屋重名氏、熊本師団に赴任せらるるや、同地の金工神吉樂壽を師として肥後拵を研究し、細川家に請ひ、職工數人を伴ひ信長刀を見るを得、茲に始めて従来の説を正し、眞正の模倣品成る、然れども數少くして此長屋氏の有を加へ僅かに四腰に過ぎず。
長屋重名(ながや しげな)は土佐藩士でのち陸軍大佐。天保14年(1843年)生まれ。幼名孫四郎。土佐藩士で国学者・国沢才助の三男。長兄・国沢新兵衛はのち満鉄総裁。次兄・大八郎は槍術の達人。
重名は幼少より病弱で、14歳の時に徳弘董斎に南画を学ぶ。17歳の時、母方の叔父・長屋六左衛門死去のため、家を継いだ。
18歳で江戸に出て、のち藩に戻って藩主容堂の小姓役(同役に秋山久作)。小目付より大目付に進み、戊辰戦争では監察。のち大隊長。明治9年(1876年)大阪城に陸軍兵学校ができると入学、同校が廃校となり、東京に出て兵部省に出仕。桐野利秋の副官として参謀部に勤める。のち名古屋に至り退官。再び陸軍大佐となり、熊本鎮台の参謀長。
この頃長岡護美(細川護久の異母弟)の許可を獲て、細川家伝来の肥後刀を見ており、この時に神吉甚左衛門(楽寿)、指物屋仁兵衛、坪井細工人仁兵衛、鞘師熊蔵らを連れていき、肥後刀の模造品を作っている。号 鉄網珊瑚(鉄網海客)。退官後、鉄網珊瑚の号で画筆をし風俗戯画に長じたほか、刀剣鑑定長じ鍔を研究して一家を成した。著作に「肥後金工録」。大正4年(1915年)1月31日没享年73。
国立国会図書館デジタルコレクション - 肥後金工録
- 明治44年(1911年)ごろにも細川家にあった。
- この頃、第23代内閣総理大臣の清浦奎吾が上記長屋氏の模造した拵のひとつを所持しており、網屋に預けたことがあった。そこで信長拵の再現に取り組んでいた堀部直臣もその拵をつぶさに拝見し、さらに細川家にて信長刀を拝見して研究を重ね、大正元年(1912年)12月に模造の拵が完成したと述べている。
即ち予(堀部直臣)も之に與り、工匠數輩と共に細川家にて親しく信長刀を見て研究を重ね、大正元年十二月に至て出来せり。
信長拵
- この加州信長作「浮股」は三斎忠興のお気に入りの一刀であり、忠興は数々の戦場でこの「浮股」を愛用し、同家では「御家刀」と呼ばれていたという。
- 忠興は本刀に、のちに「信長拵」(いわゆる肥後拵のひとつ)と呼ばれる独特の拵えを附していた。
- この拵えも同様に「御家拵」と呼ばれ古来珍重されており、明治維新後に堀部直臣が模造を試みている。堀部は尋常の出来では納得せず、十数回も巻き直しをさせたものが現存する。この信長拵写しには、現在重要文化財の備前長船祐定作の刀が収まっている。
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