河合正宗


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 河合正宗(かわいまさむね)


磨上無名 相州正宗
二尺三寸七分、重ね二分

  • 大磨上無銘。
  • 中心先は剣形。鎬造り、小鋒。
Table of Contents

 由来

  • 元は土佐藩士河村某所蔵にちなむ。
  • これにちなみ、山内家では”河正宗”と呼んでいたが、世間に出てから誤伝し、河正宗となったという。
    一説に、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に横恋慕し、伊賀国鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ち)において渡辺数馬に斬られた河合又五郎所持のためともいう。「荒木又右衛門」の項を参照。

 来歴

 山内容堂→荒木寛一

  • 明治2年(1869年)~3年ごろ、前土佐藩主の山内容堂が、酒宴の席上において「この刀はもう余には重くなりすぎたのでそちに取らせよう」といい、画家の荒木寛一に与えた。寛一は翌朝になって拝領したものが高名な河合正宗と気付き、酒席の冗談だと思い容堂の許へ返しに行くと、容堂は「一旦そちが差した刀を余が差せるか」と笑い、受け取らなかったという。
    荒木寛一は、山内容堂の知遇を受け安政3年土佐藩の絵所預となる。明治31年(1898年)東京美術学校(現 東京芸大)教授。刀には寛一の書いた由緒書きの巻物がついていたという。荒木寛一の兄は画家荒木寛畝(かんぽ)。

 福地源一郎

  • 明治5年(1872年)容堂薨去後に荒木寛一が売りに出したものを、福地源一郎(桜痴。ジャーナリスト・作家・政治家)が買う。

 萩昌吉

  • 明治22年(1889年)、桜痴が歌舞伎座創立にあたってこれを手放すと、明治天皇の元侍従であった萩昌吉に渡った。

 小倉惣右衛門

  • それを明治26年(1893年)ごろに肥後勘四郎の子孫西垣四郎作(肥後金工)を通じて、刀商網屋惣右衛門(小倉惣右)が買った。
  • 実は惣右衛門は提示された価格が五百四拾円と高かったため買いかねていたが、今村長賀がぜひとも取り出しておけと言うので買い取った上で今村に預け置いた所、しばらくして返されてしまったという。

 執行弘道→海外流出

  • さらに千円で執行弘道(しゅぎょう ひろみち)に売った。
  • 執行弘道はアメリカで美術商をしており、アメリカに持ち帰って実業家トーマス・イ・ワカマンに売る。その死後、明治38年(1905年)1月25日に競売に出され、ニューヨーク郊外ロングアイランドに住む富豪が600ドルで落札する。

 日本へ

  • その死後、昭和13年(1938年)に再び競売にかけられ、業者が落札したものを大沼恒氏が購入し、太平洋戦争勃発直前に日本へ持ち帰った。
  • さらに別の人物に譲渡されるが、その後は行方不明

 逸話

  • 山内容堂から荒木氏へと流れていった話が載っている。特に河合正宗に付けられていた一心不乱の鍔(信家)についても詳しいため少し長いが引用する。

     幕末の頃山内容堂侯の手に入り、侯のお好みで拵えを作り直した。即ち鞘は三味線糸で巻いた上を漆で塗り、鍔は一心不乱の有名な信家鍔をかけ、三所は目貫金無垢の光乗作、小柄笄は裏哺金倶利伽羅竜の金紋縁頭日の出に鶴の乗意の銘だった。
     ある夜容堂侯は野幇間のようにお供していた画家の荒木寛一に与えて終つた。荒木家では子息の寛友氏の時代にそれを売払つて終つた、その時信家の鍔は取つて置いてあつた。(中身正宗)買取つた網屋惣右衛門氏は、烏銅しぼ皮地に金色絵の蜻蛉の無銘如竹の鍔をつけてあつた。
     山内家では由緒ある正宗の刀なので探していたので、今村長賀氏から必ず買うからとて網屋氏から取寄せたが、代金千五百円は高すぎるとて値切つて来た。網屋氏は何だ武士たる者が必ず買うと云つて置きながら今更値切るのは卑怯だと怒つて持つて帰つた。実際その頃の千五百円は一寸耳慣れない高い代金だつたらしい。然るに執行公道(弘道)という人があつて、それを千五百円に買取り米国人に贈呈して終つた結果、遂に行方不明となつた。そうなって来ると欲しくなるのは人情で、山内家では手を尽くして行方を探したが遂に知ることが出来なかつた。
     一方信家の鍔も行方不明で山内家では探していたが、ある時私の剣友小宮親文翁がやつて来て、書画の事で近所にいる荒木寛友君の所へ行つたら、信家の鍔を見せられて斯く斯くの出来だ、どもう(どうも?)好さそうだから見てくれないかとの事である。私は子細に訊いてからそれは有名な鍔らしい、就ては私が見に行くよりは秋山翁(秋山久作氏)を連れて行こうとて、直様翁を連れて三人で荒木家へと行つた。秋山翁は一見して膝を敵き、これこそ山内家に是非入用の品だ譲り受けたいと正直に云うと、荒木はぬからず百五十円だと云う。当時信家百五十円は眼玉の飛び抜ける程の値だ、秋山翁も私達も指を喰わえて引下つて来たが、山内侯爵は百五十円で買つて来いとて、遂に無事に元の鞘に納つたわけである。
     中身の正宗の方は終戦後私の住んでいる鵠沼の近所に、大沼と云う商工省の元役人が、帰国の途中米国のクーポンで刀を二十本ほど買つて帰つた中にあつた。この大沼氏がある時私方に来り売りたいとの事だつたが、山内家は既に斜陽族となり石黒久呂君が十五万円で交渉して見たが駄目だつたとのことで、誰か由縁のある土佐出身の人に世話したいと思つたけれど、適当の人がなく大阪の河野氏の希望で、私は大沼氏を連れて行つて紹介し河野氏の有に帰したが、その河野氏が後に手放すこととなり、今は尼ケ崎方面の人が求めて持つて居るそうである。

    この中身正宗の来歴では、福地源一郎および萩昌吉の来歴が飛んでおり、網屋から始まっている。商工省の大沼氏が上記来歴の大沼恒氏ということになり、その後の「別の人物」が大阪の河野氏ということになるが詳細は不明。
     なお鍔の方は中身を売るときに外して荒木寛友が所持していたが、ある時に著者の剣友小宮親文、著者さらに秋山久作氏も同行して確認後、山内家が百五十円を出して山内家へと戻っている。秋山久作氏については「中村覚太夫」の項を参照。

    大沼恒氏は、戦前数ヶ所あった旧制専門学校である高等商業学校の東京高商(現在の一橋大学)を大正5年(1916年)に卒業した人物で、さらに専攻部へと進むが卒業すること無く堀越商会のニューヨーク支店配属となった。その頃商務省(経産省の前身組織)では輸出振興のために現地での情報収集を行っていたが、外務省との業務内容重複によりその業務を「貿易通信員」として民間に委託しており、大沼恒氏はカナダ・トロントにおける貿易通信員であったという。


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