殿下渡領


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 殿下渡領(でんかわたりりょう)

  • 藤原氏の氏長者である藤氏長者の地位に付随して伝領される所領のこと。「でんかわたしりょう」、摂籙渡荘(せつろくわたりしょう)とも。
    • 「渡領」とは一般に特定の地位に付属して伝領される所領である(皇室の後院渡領や太政官の官務渡領・局務渡領なども同様である)。
    • 「殿下」とは摂関に対する敬称で、一部例外を除いて藤原北家御堂流に属する摂政関白が藤氏長者を兼ねる慣例が確立していたことによる。
Table of Contents

 はじまり

 道長

  • 寛仁元年(1017年)に、藤原道長が嫡男の藤原頼通に摂政及び藤氏長者の地位を譲った際、ともに与えられた大和国佐保殿(さほどの)・備前国鹿田(かた)荘・越前国片上(かたかみ、方上)荘・河内国楠葉牧(くすはのまき)の4荘園が殿下渡領の基盤であり、藤氏長者の交替時に氏長者印・朱器台盤とともに殿下渡領に関する権利の譲渡を記した「渡文」(庄々送文・庄園渡文)の継受が行われた。
  • この4荘園は代々他の荘園とは違う体制のもとで管理され、佐保殿は執事家司、鹿田荘・片上荘は執事家司または年預家司、楠葉牧は御厩別当が知行することが定められていた。

 頼通

  • 頼通の所領は正室の隆姫女王・嫡男の師実(忠実の祖父)・娘の寛子(後冷泉天皇皇后、忠実の養母)にそれぞれ分割譲渡されていた。

 忠実

  • 頼通の曾孫である忠実は、これを全て相続し摂関家の復興を図る。
  • 加えて忠実は、母・藤原全子(中御門流 藤原俊家の娘)、祖母・源麗子(師実正室、村上源氏 源師房娘)の所領も相続した。
  • 忠実は自ら相続したこれらの所領を合わせて、殿下渡領とは別の摂関家の不分割家領とした。

 藤原北家嫡流(五摂家)

【藤原北家嫡流(有職故実御堂流)】         (近衛家)
道長─頼通─┬師実─┬師通─┬忠実─┬忠通─┬基実──基通──家実─┬兼経(近衛家⑤)
      └通房 │   │   │   │           └兼平(鷹司家⑤)
          │   ├家政 │   │(松殿家)
          │   │   │   ├基房──師家
          │   └家隆 │   │
          │       │   │(九条家)
          │       │   └兼実──良経──道家─┬教実(九条家⑤)
          │       │               ├実経(一条家⑤)
          │       │               └良実(二条家⑤)
          │       └頼長─┬兼長
          ├家忠         ├師長
          │(花山院家)     └隆長
          ├経実
          │(大炊御門家)
          └忠教
           (難波家)

 拡大

  • 後に藤氏長者の管理下にあった氏院である勧学院と御堂流ゆかりの3寺院(法成寺・東北院・平等院)の所領(氏院寺領)も藤氏長者の伝領とされ、「長者の摂する所の荘園」として扱われて殿下渡領に准じる扱いを受けた。
  • 広義においては、これらの氏院寺領も殿下渡領として扱われる。ただし、渡文や定まった管理体制が存在しないことなど上記の4荘園の扱いとは異なる。
  • 14世紀に作成されて九条家に伝えられた資料に基づけば、勧学院領34箇所・法成寺領18箇所及び19末寺・東北院領34箇所・平等院領18箇所11末寺から構成されていたことが知られている。
    道長の宇治別業として建立された平等院の地は、元は左大臣源融(822-895。光源氏のモデルともされる)の営んだ別業だったもので、その後、陽成天皇(869-949)、宇多天皇(867-931)を経て宇多天皇の孫である六条左大臣源重信(922-995)に伝領されていた。それを長徳4年(998年)に重信の未亡人から姪(源明子)の婿である道長が贖ったものである。道長は度々ここで遊宴を催している。後に道長よりこれを伝領した頼通は、末法の世に入った永承7年(1052年)に寺院に改め平等院を建立した。
  • 道長・頼通の嫡流である御堂流摂関家の当主は、「宇治入り」を実施することで藤氏長者としての正当性を誇示していた。頼通の曾孫である忠実が、嘉承元年(1106年)1月に始めたものとされる。この「宇治入り」は鎌倉時代まで続けられていたことがわかっている。

 平氏による横領

  • 保元の乱で摂関家は勢力を大幅に衰退させるが、この機に乗じて後ろ盾となったのが平清盛であった。娘の平盛子を基実に嫁がせると摂関家の家司に平宗盛・重衡が加わるり影響力を増加させた。
  • 永万2年(1166年)に基実が24歳で急死。子の基通が7歳と幼少であったため、後任の摂政には松殿基房が就任した。この時、摂関家家司の藤原邦綱は、殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領(氏院寺領)を除く膨大な私的家領・代々の日記宝物・東三条殿を盛子が伝領するよう策動し、自らは盛子の後見となった。
  • これにより、盛子の父である清盛は摂関家領荘園の実質的な管理を行うこととなり勢力拡大が進む。しかし治承3年(1179年)に平盛子も死去する。松殿基房が摂関家領荘園の相続を目論むが、結局は後白河法皇の管理下に入る。
  • その後清盛による院政停止により、これら摂関家領は平氏の影響下に置かれることとなり、院と清盛の全面衝突となる。その後高倉上皇が危篤となり崩御、さらに清盛も死ぬと状況は一変し、後白河の院政が開始され没収された院領に加え、後院領も後白河院の管理下に入ることとなった。
  • 忠実の孫に当たる九条兼実は、故実先例の集積による儀礼政治の遂行に特化することで生き残りを図る。
  • さらに異母姉である皇嘉門院(藤原聖子)の庇護を受け、養和元年(1181年)に皇嘉門院が亡くなると所領の大部分は兼実の子である良通に譲られ、これらは九条家の主要な経済基盤となった。さらに兼実は、鳥羽法皇や生母美福門院などから相続し広大な所領を持っていた八条院(暲子内親王)に近づくが、こちらはその後、順徳天皇から後高倉院、後醍醐天皇へと伝わり、大覚寺統の主要な経済基盤となっている。

 分散

  • 文治2年(1186年)に九条兼実が摂政・藤氏長者に任ぜられた際、後白河院の院宣によって殿下渡領・氏院寺領のみが兼実に継承され、その他の家領は嫡流とされた近衛家が引き続き所有することになった。
  • これ以後、殿下渡領・氏院寺領と近衛・九条両家の家領は完全に分離され、殿下渡領・氏院寺領は藤氏長者の交代とともに伝領され、それ以外の所領はそれぞれの摂関家固有の家領として子孫に伝領されることとなった。
  • これにより近衛流が殿下渡領以外の摂関家領のほとんどを掌握することとなり、九条流は天皇の外戚としての血縁関係と鎌倉幕府との良好な関係によってもたらされた摂関就任の実績によってようやく摂関家としての地位を安定化させるに留まった。
  • その後、近衛流摂関家からは嫡流の近衛家並びに、兼平により鷹司家が成立。さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および教実・良実により、それぞれ一条家および九条家・二条家が成立した。建長4年(1252年)に鷹司兼平が関白に就任、文永10年(1273年)には政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任してその摂家の地位が確認されたことで、「五摂家」体制が確立されることになる。

 殿下渡領の遷移

佐保殿
大和国佐保殿(さほでん) ※具体的な場所は不明
・奈良時代以来、奈良郊外にあったとされる藤原北家当主の邸宅が元で、「今昔物語集」は、「山階寺(興福寺)の西に佐保殿と云ふ所は、此の大臣(藤原北家の祖・藤原房前)の御家也」と記す。これらのことから、興福寺や春日大社の北西にあった佐保(現在の奈良県奈良市法蓮町付近)の地であると推定されている。
・平安時代に入ると藤氏長者が代々所有するようになり、藤氏長者が興福寺や春日大社に参詣する際には佐保殿を宿舎として、ここで旅装を改めて衣装を整えて奈良に入っている
・室町時代末期には、「宿院御所之旧跡」となっており、すでに廃絶していたものと見られている
鹿田荘
備前国鹿田荘(しかたのしょう / かだのしょう)。備前国御野郡(現在の岡山県岡山市南部
・旭川下流右岸、岡山平野に広がる荘園で、その歴史は奈良時代末期まで遡り、興福寺に寄進した記録などが残る
・平安時代中期以降は、殿下渡領として摂関家の支配が確立されている
・南北朝時代には地元の武士である松田氏が台頭し、摂関家が本家、興福寺が領家、備前松田氏が代官として、代官請による年貢徴収を行う体制が成立するが、応仁の乱後には本家・領家の支配は有名無実化したとみられている
片上荘
越前国片上荘(かたがみのしょう)。越前国今立郡(現在の福井県鯖江市
・天暦5年(951年)には「検校片上御庄惣別当生江」と記されており成立していたことがわかる
・室町時代末、太閤検地直前の天正11年(1583年)が記録上の下限となっている
・当初は地元の豪族である生江氏が開発に関わったとみられており、後に越前斎藤氏(藤原利仁の末裔で斎藤実盛を輩出)に下司職が移っている
楠葉牧
河内国楠葉牧(くすはのまき / くずはのまき)。河内国交野郡楠葉(現在の大阪府枚方市楠葉
・中世には摂関家の私的な牧が置かれていた
・鎌倉時代に入ると、「河北牧」「河南牧」とに南北に分けられ、また牧の農地化・住人の農民化が進行する
・南北朝時代に入ると、興福寺の楠葉関設置など寺社勢力の浸透が見られるようになり、やがて楠葉の北東にあった石清水八幡宮が摂関家勢力を排除して「楠葉荘」として自領に編入することになった。

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