摂政関白


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 摂政関白(せっしょうかんぱく)

摂政は天皇が幼少や病弱など天皇に代わって政治を摂る職のこと。

関白は天皇に代わり政治を行う職で、実質的に公家の最高位であった。

  • 律令に規定されない令外官
  • 摂政関白は天皇の代理人であり、天皇臨席などの例外を除き太政官の会議には参加しない慣例があった。このため、太政大臣・左大臣が摂政関白を兼任している際にはつぎの席次である右大臣または次席の大臣が「一上」として政務を執った。
  • 内覧

 摂政

  • 日本では神功皇后摂政紀もあるが、実質的に摂政が設置されたのは推古天皇のときの厩戸皇子が最初である。その後何人かの皇族が摂政を行ったが、866年に藤原良房が臣下として初めて摂政となった。ただし良房が摂政となった時点では清和天皇は既に成人しており、幼少時の天皇に摂政が付くという慣例が成立したのは、61代朱雀天皇の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が最初である。
  • 以降、藤原道長の頃から建武の新政期を除いて常置の官となり、摂政関白のいずれかを道長の子孫である御堂関白家が占めることとなった。

 関白

  • 関白の初任者は藤原基経であり、続いて任命されたのが基経の子忠平であった。忠平は朱雀天皇の即位前から摂政を務めており、承平7年(937年)に天皇が元服したのを機に辞表を提出した。時同じくして承平天慶の乱が起こったために天皇がこれを慰留し、乱後の天慶4年(941年)に忠平の摂政辞任の受理と、関白への辞令が行われた。

 藤原北家

【藤原北家】
基経─┬時平──保忠
   │
   ├仲平      ┌敦敏───佐理
   │        ├頼忠───公任───定頼
   ├忠平─┬実頼──┴斉敏───実資───資平───資房
   │   │ (有職故実小野宮流)
   │   │
   │   │ (有職故実九条流)
   └兼平 ├師輔──┬伊尹──懐子→冷泉:花山母
       │    │
       ├師保  ├兼通
       │    │    ┌超子→冷泉:三条母
       ├師氏  ├兼家──┼道隆──伊周(中関白家、坊門家・水無瀬家)
       │    │    ├詮子→円融:一条母
       └師尹  ├為光  ├道兼──兼隆
            │    ├道綱 
            │    │ 
            │    │ 
            │    │(有職故実御堂流)
            │    │   ┌彰子→一条:後一条・後朱雀母
            │    │   ├頼通───────師実─┬師通(北家嫡流、五摂家)
            │    └道長─┼教通          ├家忠(花山院家)
            │        ├頼宗(中御門家)    ├経実(大炊御門家)
            │        ├顕信          └忠教(難波家)
            │        ├能信
            ├安子      ├嬉子→後朱雀:後冷泉母
            │→村上中宮   └長家─忠家──俊忠──俊成──定家──為家
            │ 冷泉・円融母  (御子左家)
            │
            └公季───実成───公成──┬実季──┬公実──┬実兼
             (閑院流)         │    │    ├実隆
                           ├頼仁  ├保実  ├実行(三条家)
                           │    │    ├通季(西園寺家)
                           ├慶信  ├仲実  ├実能(徳大寺家)
                           │    │    ├季成
                           └茂子  └苡子  ├仁実
                            →後三条 →堀河 └璋子→鳥羽
                              白河母  鳥羽母    崇徳・後白河母

 摂関政治の成立

  • 村上天皇の治世時には関白が設置されず、藤原忠平の子である実頼と師輔は左右大臣としてともに村上天皇を輔佐し、天暦の治と評された。天暦3年(949年)には、父忠平薨去のあとをうけて実頼は氏長者となっている。
  • 続く冷泉天皇のときに、天皇の狂気の病から輔弼するものが必要となり、藤原氏嫡流で長老の太政大臣藤原実頼が関白および太政大臣に補任され関白職が復活することになる。実頼以降、筆頭大臣が関白となることが続いたが、986年(寛和2年)に右大臣藤原兼家が外孫一条天皇の摂政に任じられ、これは藤原良房以来天皇の外祖父が摂政に就任するケースであった。
  • 当時、右大臣藤原兼家の上官には前関白の太政大臣藤原頼忠(実頼子)と左大臣の源雅信がおり、摂政の位置づけが不明瞭になったが、1ヶ月後に兼家は右大臣を辞職し、摂政が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より上席を占めるという一座宣旨を受ける。これにより、初めて前職大臣身分(大臣と兼官しない)の摂政となり、この「寛和の例」以降、摂関と大臣は分離され、藤原氏の氏長者の地位と一体化していった。
  • 永祚元年(989年)には円融法皇の反対を押し切って長男・道隆を内大臣に任命し、律令制史上初めての「大臣4人制」を実現させた。更にこの年に前関白の太政大臣藤原頼忠が薨去すると、その後任の太政大臣に就任した。
  • 翌正暦元年(990年)の一条天皇の元服に際しては加冠役を務め、これを機に関白に任じられるも、わずか3日で病気を理由に嫡男・藤原道隆に関白を譲って出家、如実と号して別邸の二条京極殿を「法興院」という寺院に改めて居住したが、その2ヶ月後に病没した。

 摂関政治の興隆

  • 兼家の死後、権力争いに勝利した道長が朝廷の主導権を握り関白に就くことなく「内覧」および「一上」として政務を主導し、事実上の関白として「御堂関白」とも呼ばれた。
  • 1016年(長和5年)に後一条天皇が即位すると道長は摂政となったが、間もなくその子の頼通にその座を譲った。その後も道長の外孫が天皇となることが続き、頼通は50年以上にわたって関白の座を占め続け、摂関政治の最盛期を築いた。

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