横須賀江


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 横須賀郷(よこすかごう)


無銘(名物 横須賀江)
全長92.4cm 刃長75cm 反り2.1cm
重要美術品
白河市教育委員会(小峰城歴史館保管)

  • 享保名物帳にも、「横須賀郷(磨上)二尺四寸七分 三百枚(七千貫)阿部豊後守」として載っている名物で、当時の価値基準である代附(だいづけ)は記載されている義弘11口中の最高値(無代を除く)である。

    横須賀江 無銘長二尺四寸七分 代七千貫 阿波豊後守殿
    横須賀と申処より出つ、義弘の申伝へにて光常の代に来り(海府にて)十枚の代付也、元禄十四年に又来り光受砥き右の通り究る

    「海府にて」は詳註刀剣名物帳では省かれる。当初は海府=阿波の刀工による作と極められ10枚の代付けであったが、のち元禄14年(1701年)に郷義弘に極められたという。

  • 表裏に棒樋をかき、樋先下がり、下は中心尻近くで掻き流しになる。中心大磨上、目釘孔3個。無銘

 由来

 来歴

 大須賀康高

  • 元は遠江国横須賀城主大須賀康高の所持。
    大須賀康高は大須賀正綱の子。はじめ娘婿の榊原康政と共に酒井忠尚に仕えていたが、忠尚が徳川家康に反旗を翻すと、これに従わずに康政とともに家康に仕え、旗本先手役として活躍した。天正2年(1574年)の高天神城籠城戦では城将の小笠原信興らと共に2ヶ月間籠城の後に開城降伏(第一次高天神城の戦い)。高天神城奪還のため、天正6年(1578年)に横須賀城を築城開始。天正8年(1580年)の第二次高天神城の戦いでも活躍し、家康は高天神城を奪還した。その後も天正壬午の乱、小牧長久手の戦い、上田合戦と多くの戦いで活躍し、家康の創業期を支え徳川二十四将に数えられた。しかし康隆自身が天正17年に病死。跡を継いだ忠政も27歳で亡くなり、大須賀氏が後に榊原氏に吸収されたこともあり大須賀氏や康隆の事績は大きく語られることが少ない。康隆には信高という実子があったが、仏門に入り慶長8年(1603年)に修栄和尚として善福寺(掛川市西大渕)を開いており、現在も城跡東方に残る。

    十七年六月廿三日康隆六十二歳にして卒す、外孫なれば榊原小平太康政が嫡男を世嗣とす、五郎左衛門忠政と名のる。(略)十二年の春違例する事ありて、醫療の爲に都に上り年廿七歳にして、同九月十一日終に空しくなりてけり、嫡子國丸年纔に三歳にて家を継ぎ、五郎左衛門尉と申す、元和元年榊原遠江守康勝卒して、榊原が家絶えんとす、大御所の仰かうふりて五郎左衛門尉、本姓にかへり、祖父式部大輔康政が家を継きて、榊原式部大輔忠次と召されしかば、大須賀の家は絶えてけり、
    (藩翰譜)

 阿部忠吉

  • 天正14年(1586年)、阿部忠吉(正吉)は父・阿部正勝と親交のあった横須賀城主大須賀康高の申し出により、大須賀康高の娘婿となり横須賀城に入城する。
  • その経緯で、本刀は豊後守阿部忠吉が入手したと思われる。
    ただし天正17年(1589年)の康高の死後、大須賀家の家督を継いだのは榊原康政に嫁いだ娘が産んだ大須賀忠政(榊原康政次男)で、上総久留里藩主を経て遠江横須賀藩の初代藩主となった。しかし子の大須賀忠次は後に家康直々の裁定により断絶の危機にあった榊原家を継ぎ、館林、陸奥白河、姫路藩主となっている。なお大須賀忠次の母は祥室院(松平康元の娘でその生母が於大の方であり、祥室院は家康の姪にあたる人物)。
    【大須賀・榊原・阿部関係系図】
    
                      ┌福正院(池田利隆正室、池田光政母)
           榊原長政──榊原康政─┴榊原康勝━━榊原忠次【横須賀→館林榊原家→白河藩→姫路藩】
                  ├───┬大須賀忠政
    大須賀正綱──大須賀康高─┬娘   ├榊原忠長
                 │    └聖興院(酒井忠世正室)
                 │
                 ┝━大須賀忠政
    久松俊勝         │   ├─榊原(大須賀)忠次
      ├────松平康元──│─祥室院
    於大の方         │
      ├────徳川家康  │
    松平広忠         └─娘
                   ├────阿部忠秋【武蔵忍藩主】
                 ┌阿部忠吉
                 │
                 │(阿部宗家)
           阿部正勝──┴阿部正次──阿部重次─┬阿部定高【武蔵岩槻藩主】
                             └阿部(三浦)正春【上総佐貫藩主】
    

 阿部家代々

  • 諸事情により阿部忠吉が大須賀家を継ぐことはなかったが、御徒頭、旗本、のち加増を受けて大番頭となった。寛永元年(1624年)正月没す。

      阿部
    忠吉
    初正吉 善七郎 左馬助 従五位下
    阿部伊豫守正勝が二男、母は今川家の臣江原三右衛門定次が女。
    天正十四年大須賀五郎左衛門康隆、常に忠吉が父正勝に就て諸事を東照宮に言上せるが故に、正勝が諸子のうちを婿とし、所領横須賀に置ん事をこふ。御許容あり。よりて忠吉横須賀におもむく。十八年小田原陣のとき(略)忠吉大須賀が徒士等を率ゐて酒匂の菅野に伏兵を設け、敵のすぐるをまちてこれをうち、忠吉一番に進みて鎗をあはせ、敵二人をうちとり、首級を得て東照宮の台覧に備へしかば、御感をかうぶる。(略)慶長四年めし出され采地千五百石をたまはり、御徒の頭をつとむ。
    (阿部忠吉-寛政重脩諸家譜)

    天正18年(1590年)の小田原陣では大須賀の兵士を率いて戦功を挙げている(康隆は前年に病死)が、慶長4年(1599年)には召し出されて采地千五百石を賜っている。一説に、慶長5年(1600年)に兄・阿部正次の所領のうち、下総の千三百石を分けられたとも言う。いずれにしろこの頃には大須賀ではなく阿部の別家として登用されたということになると思われる。

  • 子の阿部忠秋は、寛永10年(1633年)3月に六人衆として重用され、のち徳川家光・家綱の2代にわたって老中を務めた。寛永12年(1635年)に下野壬生藩2万5000石、寛永16年(1639年)に武州忍藩5万石。
    阿部忠吉と大須賀康高の娘の間に生まれた子が、江戸幕府初期の名臣として名高い老中阿部忠秋。阿部忠秋は、後世明治期の竹越與三郎から「(同時期に老中を務めた酒井忠勝・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、独り忠秋のみありき」と高く評価されている。忠秋系阿部家は、武州忍藩主を経て陸奥白河藩主となった。なお幕末の老中筆頭阿部正弘は、阿部宗家第11代当主で岩槻藩→備後福山藩主家の生まれ。
     慶長15年(1610年)に家光の御小姓となる。元和9年(1623年)に小姓組番頭。寛永元年(1624年)に父の後を継ぎ、かねての采地とあわせ6千石知行。寛永3年(1626年)に4千石加恩され1万石。この時、松平信綱と同じく近習御小姓頭。寛永6年(1629年)に5千石加えられ、御小姓組番頭。
     寛文11年(1671年)5月致仕、6月6日に得物高木貞宗の脇指、青貝布袋の香合を献上、これより先に家光より西蓮の刀、「尾上」と名付けた茶碗、高麗茶碗を賜っている。延宝3年(1675年)5月3日卒。74歳。
  • その後も忠秋系阿部家は重用され、忍藩初代忠秋、2代正能、3代正武、4代正喬、5代正允、白河藩7代正外が老中に、また忍藩6代正敏は大坂城代、同8代正由は京都所司代に任じられている。
  • 本刀は本阿弥光常が阿波の海部物と鑑定しなおし、十枚の折紙をつけた。
  • 元禄10年(1701年)本阿弥光受が研ぎ直すともとの郷義弘極めに戻り、一躍七千貫、三百五十枚の折紙をつけた。
  • 文政6年(1823年)、幕府より忍藩、伊勢国桑名藩、陸奥国白河藩の三方領知替えを命じられ、阿部家は183年にわたって統治した忍より11万2千石で陸奥白河に移封され以降8代44年間在封した。
    7代藩主・阿部正外は間もなく老中となり攘夷派の反対を押し切って兵庫開港を決定したが、結果的にこれが仇となって老中を罷免され4万石を減封された。慶応2年(1866年)8代藩主の阿部正静のとき棚倉藩に転封、白河藩領は二本松藩の預かり地となったため、戊辰戦争時は藩主不在で係争の地となり、白河城は戦火によって大半を焼失した。慶応4年(1868年)2月、阿部正静は白河藩に復帰したが、同じ年の明治元年12月、再び棚倉藩に転封となり白河藩は廃藩となった。
  • 昭和9年(1934年)12月20日に重要美術品認定。阿部正友子爵所持

    刀 無銘(名物横須賀江) 一口 子爵阿部正友


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