本圀寺


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 本圀寺(ほんこくじ)

日蓮宗大本山
山号は大光山

  • 日蓮宗四大本山の一つ。
  • 元は「本国寺(本國寺)」で、江戸時代に徳川光圀の帰依により「本圀寺」と寺号を改めている。
  • 京都市山科区御陵大岩町。
Table of Contents

 概要

 鎌倉法華堂

  • 寺伝によれば、日蓮宗の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝える。日蓮が伊豆に配流(伊豆法難)から戻った後、弘長3年(1263年)に法華堂は再興され、2世日朗により本国土妙寺と改称している。

 京都本国寺

  • 4世の日静は、貞和元年(1345年)光明天皇の勅諚により京都に寺地を賜り、六条堀川に移転し、朝廷より「正嫡付法」の綸旨を受けている。寺地は北は六条坊門(現五条通り)、南は七条通り、東は堀川通り、西は大宮通りまでの範囲を占めた。
    日静(にちじょう)、父は藤原北家の末裔上杉頼重、母は足利氏の娘と言われ、姉の上杉清子が征夷大将軍・足利尊氏の生母にあたる。日静は足利尊氏の叔父にあたることから寺は足利氏の庇護を受けた。応安2年(1369年)示寂。
     弟子に、日陣(法華宗陣門流の門祖)と日伝(日蓮宗六条門流)がいる。

    刀剣鑑定、研磨、浄拭を家業とする本阿弥家は、始祖妙本が日静上人に帰依し、妙本阿彌佛と号したことから、「本阿彌」を名乗ったとする。
     北条時氏[得宗家]
       ├──┬北条経時
    ┌松下禅尼 └北条時頼──北条時宗
    │             ├──北条貞時
    │     ┌──────覚山尼
    │     │             
    │     │        金沢顕時 ┌名越殿(北条時如室)
    │     │          ├──┼顕弁、顕実、北条貞顕
    └安達義景─┴安達泰盛─┬─安達千代野 └釈迦堂殿
     (城太郎) (城九郎)│          ├───足利高義
                │  足利家時──足利貞氏
                │          ├──┬足利尊氏─┬足利直冬
    勧修寺清房──上杉重房─│──上杉頼重─┬上杉清子 └足利直義 └足利義詮──足利義満
                │       ├上杉重顕【扇谷上杉家】
                │       ├上杉頼成【千秋上杉家】
                │       ├上杉憲房─┬上杉憲顕【山内上杉家】
                │       └日静   ├上杉憲藤【犬懸上杉家】
                │             └上杉重兼【宅間上杉家】
                │
                ├安達宗景──安達貞泰
                │(秋田城介)
                └安達盛宗(城次郎)
    
  • 5世日伝は、足利義満の帰依を受け五重塔等を建立している。※日伝は応永16年(1409年)示寂。五重塔は天明の大火で焼失。
  • 室町時代半ばには洛中法華二十一本山(京都日蓮宗二十一箇本山)の代表格として、妙顕寺と共に威勢を振るった。

    永正13年(1516年)幕府、山城本国寺をして、同寺南八町の地を安堵せしむ、

    妙顕寺は後醍醐天皇(南朝方)の勅願寺。北朝の光明天皇が本國寺を勅願寺としてのはこれに対抗する意味もあったという。妙顕寺については秀吉の二条第(妙顕寺城)を参照

  • 大永6年(1526年)近衞尚通は同寺所蔵の法華経絵を叡覧に供している。

    近衞尚通、本圀寺所蔵の法華經繪を叡覽に供す、

  • 大永7年(1527年)2月の桂川原の戦いにおいて、足利義晴は本圀寺に陣をおいている。

    義晴、本圀寺に、細川高國、東寺に、武田元光、吉祥寺に、細川尹賢、上野一雲等、桂川に陣し、柳本賢治、三好勝長等と對陣す、明日、勝長、弟政長と共に、川勝寺に元光を攻めて之を破り、高國も亦奮戰す、權大納言日野内光戰死し、勝長創き、尋で卒す、

  • 天文5年(1536年)、天台宗徒と六角氏により焼き討ちされた天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺の成就寺に避難している。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は天文16年(1547年)、六条堀川の旧地に再建された。

    本能寺、法華寺、本圀寺、六角定頼に頼り、其京都還住を延暦寺に謝し、和談の條規を定む、

    本圀寺、本堂を再建し、是日、竣工す、

  • 永禄11年(1568年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。

    足利義昭、京都に帰り、本圀寺に館す、故細川氏綱の第に徒る、織田信長も亦京都に還る、

  • しかし翌永禄12年(1569年)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件(本圀寺の変)が発生してしまう。

    三好政康等、京都に入り、足利義昭を本圀寺に囲む、三好義継、池田勝正、伊丹親興等来り援け、政康等を走らす、

  • 本国寺はなんとか損傷を免れたものの、信長は本国寺の一部の建物を解体して二条御所建築に用いることを決める。本国寺の一部の建物は取り壊され、それぞれの建築物は二条御所(旧二条城)へと運ばれて再組み立てされたという。さらには屏風や絵画などの本国寺の貴重な什器類までもが運び去られたという。
  • 天正10年(1582年)清州会議を終えた秀吉は、7月11日京都に戻り本圀寺に陣をおいている。また10月28日には丹羽長秀、池田恒興らと同寺において面会している。

    羽柴秀吉、京都に入り、六条本圀寺に陣す、公家衆以下之を訪ふ、

    羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興等と京都本圀寺に会す、

  • 天正13年(1585年)、豊臣秀吉により山城国菱川村(現・京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた。

    羽柴秀吉、禁制を京都本圀寺に下す、

  • 天正19年(1591年)、日重により求法檀林(学問所)が開檀される。同年、豊臣秀吉の命により西本願寺造立のため、寺地のうち南二町を割譲した。
  • また熱心な法華宗(日蓮宗)信者であった加藤清正の帰依を受けている。

    加藤清正、万部読経を京都本国寺に修し、亡母の冥福を薦む、是日結願、

  • 寛永3年(1626年)、後水尾天皇の二条城行幸の際に、前田利常が宿所としている。利常は従三位・権中納言に叙任される。この時利常は、楠流の兵法を伝えるという法華法印日翁と出会い、のち金澤で御伽衆となっている。

    前田利常、上洛して本国寺に館す

    法華法印日翁、前田利常に京都本国寺の旅館に謁し、後その臣となる

  • 寛永13年(1636年)以降、朝鮮通信使の宿舎となっている。
    これは、それまで京都での宿所であった大徳寺が紫衣事件により、幕府から勘気を蒙ったためであるとも言う。

 本圀寺

  • 徳川光圀は当寺にて生母久昌院の追善供養を行い、貞享2年(1685年)、光圀から”圀”の一字を下され、本圀寺と寺号を改める。
  • 天明8年(1788年)1月30日の天明の大火では、経蔵(現存)を除く伽藍が焼失した。この時、加藤清正寄進の経蔵のみが焼け残ったという。※現、重要文化財。後述
    天明の大火では、東は河原町・木屋町・大和大路まで、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通・大宮通・千本通まで、南は東本願寺・西本願寺・六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。光格天皇は御所が再建されるまでの3年間、聖護院を行宮(仮御所)とし、恭礼門院は妙法院、後桜町上皇は青蓮院(粟田御所)にそれぞれ移った。
  • 文久3年(1863年)には本圀寺事件が起きた。
  • また同年、水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊攘派志士が、本圀寺に駐屯して皇室の守衛や慶喜の補佐にあたり、本圀寺勢(本圀寺党)と呼ばれた。

 山科移転

  • その後も本圀寺は荒廃し、昭和46年(1971年)には現在地である山科に移転している。
  • しかし現在も、旧塔頭のうち十六院が六条の旧地に残っている(松林院、瑞雲院、一音院、詮量院、了円院、勧持院、松陽院、林昌院、本妙院、智妙院、本實院、真如院、了光院、智了院、智光院、久成院)。

 関係者など

 瑞龍院日秀尼

  • 父は木下弥右衛門、母は天瑞院(大政所)。本名は智子(ともこ)。
  • 豊臣秀吉(羽柴秀吉)の同父姉、秀長と朝日姫の異父姉にあたる人物。
  • 夫は三好吉房で、秀次・秀勝・秀保らの母となっている。
  • 文禄4年(1595年)の秀次事件が起きると、文禄5年(1596年)正月、智子は戒師に本圀寺の空竟院日禎を招き、仏門に入って出家した。「日秀」は出家後の法名(法諱)。字は「妙慧」(みょうえ)。道号は「村雲」で、通称に「村雲尼」(そんうんに)。院号は「瑞龍院」(ずいりゅういん)。正しい僧侶名は「瑞龍院妙慧日秀」となる。
  • 同年、日秀は京都の村雲の地に瑞龍寺を建立したが、気の毒に思った後陽成天皇が1000石の寺領を寄進したので、後に皇女や公家の娘が門跡となる比丘尼御所(俗に言う「尼門跡」)として、「村雲御所」と呼ばれる格式高い寺院となった。この寺院は後に大火で焼けて、現在の瑞龍寺へ移転している。のち瑞龍寺は、豊臣秀勝とお江の娘である豊臣完子の末娘日怡が2世を継いでいる。

 加藤清正

  • 生母の影響から早くから日蓮宗信者であり、亡父を弔うために大坂難波に日真を開山として寺院を建立しており、熊本入り後にはこれを熊本へと移転させ本妙寺としている。
    本妙寺(ほんみょうじ)は、熊本市西区の熊本城北西にある日蓮宗六条門流の寺で、大本山本圀寺から「六条門流九州総導師」の特別寺格を与えられている。山号は発星山。
  • 清正の正室清浄院かなは、加藤家改易後は清正の菩提寺である京都本圀寺前に住し、清正の菩提を弔いつつ過ごした。明暦2年(1656年)死去。享年75。本圀寺に埋葬されている。

 片岡風庵

  • 元は熊本藩加藤家の家臣で、加藤正方。
  • 清正亡き後、幕府の命により麦島城代になるが、同僚の加藤正次らと対立、牛方馬方騒動を起こして元和4年(1618年)に勝訴する。
  • 翌元和5年(1619年)に麦島城一円が大地震で崩壊すると、藩主・忠広の命で新たに松江城(のちの八代城)の築城を開始。萩原提や前川提といった堤防を築くことで、球磨川が流れる松江城下と周辺の村に治水工事を施す。元和8年(1622年)に松江城の竣工により城代家老の職についた。
  • 寛永9年(1632年)、主家の加藤家の改易にともなって京都の本圀寺に隠棲すると「片岡風庵」を名乗り、かつての家臣である西山宗因と連歌をたしなんで両吟千句などを著作する。のちに大坂で相場を張って巨利を博し、世間からはその出来事を風庵相場と名づけられた。
  • 寛永20年(1643年)に浅野家の預かりとなって慶安元年(1648年)に広島で没。享年69。墓所は広島市の白島山妙風寺。
    妙風寺はもと紀州名艸郡にあって大乗院で、浅野家が紀州藩であったころに藩士の信仰を集めた。のち浅野家が広島に移ると寺もそれに伴って移転し、現在地へと映った。二祖の本行院日意上人は、能書家でかつ茶道にも通じていたため、片岡風庵や上田宗固(上田重安)などとも交流があったという。慶安元年に片岡風庵が死ぬと妙風院正方大居士を贈り、その際に寺号も妙風寺と改めたという。

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