日本刀
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日本刀(にほんとう)
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種類
- 日本刀は、長さと作刀時期により大きく分類されている。
- ※分類・呼称は時代により異なっている。
長さ
二尺以上 | 一尺以上二尺未満 | 一尺未満 |
太刀 | 脇差 | 短刀 |
刀 |
- 現在の「太刀・脇差・短刀」の分類は江戸時代以降のもの。
- 室町・戦国期の文書等では、現在は"短刀"に分類される刀を"脇指"と呼んでいたりするため注意が必要。詳細は下記「江戸時代以前の分類呼称 」。
太刀(たち)
刃渡り二尺以上
刃を下向きにして佩き、腰に吊り下げる形で携行する。
刀(打刀)
刃渡り二尺以上。打刀(うちがたな)とも。
刃を上向きにして帯び、帯の間に差して携行する。
- 乱戦となりやすい戦国末期の戦場において、敵に出会った場合にすぐに抜刀して構えられるように刃を上向きにして装備する。左腰の鞘を左手で押え、右手で前方に抜き放つ。この抜刀術が発達して居合術が生まれた。
- こと「打ち」刀と称したのは、短刀が甲冑の隙間から突いて使用したのに対して、打ち切ることを主眼とした武器であったため。
- 博物館などで展示する際も、刃を上にして(両端が下がった状態で)展示する。一般的にテレビの時代劇(武田上杉~織田豊臣~江戸時代幕末)で登場するのは打刀。
- 室町期に入るとこの打刀が流行し、応永(1394年)頃に作られた刀も刀銘のものが急増している。応永27年(1420年)に96歳で没した今川了俊が記した「今川大草紙」には、輿に載った場合に太刀と腰刀(短刀)は左側、打刀は右側に立てておくと書かれており、輿に乗るような貴人でも打刀を併用していたことがわかる。また大永8年(1528年)の奥書がある「宗吾大草紙」には、足利将軍の打刀の拵えについての説明があり、さらに将軍への献上物や武将間の贈答に打刀を用いる風潮を批判しているが、このことが当時すでに将軍でさえ打刀を用いており、有職故実家が批判せねばならないほどに打刀が流行していたことの証明になっている。
- また、鎌倉以前に作られた古刀を短く磨上(すりあげ)た上で、打刀として使うことがこの時期行われた。名物で「磨上」となっているのはこのため。
脇差
刃渡り一尺以上二尺未満
- なお本来の「脇差し」は主武器ではない脇の武器という意味で、槍薙刀主流の際には太刀が脇差しだったが、その後打刀での戦闘が主流になると、打刀(刀)が本差、それに添える小刀を脇差しと呼ぶようになった。
- 一尺三・四寸までを小脇差、一尺七・八寸までを脇差または中脇差、それより二尺までを大脇差または間寸(あいすん)ともいう。
- 江戸時代に制定された武家諸法度では、脇差しは正規の刀ではないという位置づけで、百姓や商人、博徒なども携帯することが許された。
短刀
一尺未満のもの
- 古くは腰刀と呼ばれた。
- 俗称「九寸五分」。ごろが良いために軍記物などで使用される。
大石の魂たった九寸五分(川柳)
九寸五分の語源として、(1).眼口鼻耳の七孔に父母の2ツを咥えて九寸、それに五臓を五分として加えたもの。(2).天地人日月に五行を併せて九寸五分にしたもの。(3).経緯説(方位)では九寸は乾で家内和合、五分は巽で子孫繁栄を意味する。などの諸説がある。
- 本阿弥家では、四寸から五寸のものを懐剣と呼んだ。本来は、装束着用時や貴人の前に出る時など脇差も佩用できないときに懐中に忍ばせた短刀のこと。
江戸時代以前の分類呼称
- 日本刀が主武器となったのは室町時代以降であり、それ以前と以降では文献上でも呼称が異なっている。
「かたな」
- 「かたな」とは、元は小刀であり「さすが」、または「腰刀」、「さやまき」などと呼んでいた。
- 「さすが」は剃刀の略。
- 「さやまき」は木製の鞘で巻くことからいう。長さは短く九寸、長くとも一尺であった。
- これは「太刀」の発展を説明しているものと思われる。
「刺刀(さすが)」
- 敵を刺すための刀。刃長1尺以下。鞘巻。
- 馬手差しと同じものとする説もあるが、馬手差しは右腰に指すため拵えが少し異なる。
- 平安時代には「刺刀」と書いて「のだち」(喉絶ち)と呼んだ。「さすが」とも呼んでおり、紀貫之の歌に「をりをりに うちてたく火の烟あれば 心さす香を しのべとぞ思ふ」とある。打ちて焚くとは刺刀の外装に火打ち袋をつけていたため。
- 鎌倉時代にも「さすが」と訓まれている。
- 江戸時代には小柄に指す小刀(こがたな)、または大小刀(おおこがたな)を指す。
「脇指し(わきざし)」
- 古くは六、七寸の長さであり、懐中に隠して指すものであった。脇の方に寄せて指すため「脇指(脇差)」と呼んだという。
脇指の事は隠剣と申して見せさる様に自然さゝれ候か
(大内問答)
- 用心のために隠して指しておき身を守るために用いたため「守り刀」とも呼んだ。東山殿(足利義政)のころから、下のものが隠さず顕して指すようになったという。
- 現在の短刀
「打刀(うちがたな)」
- 文安年間(1444から1449年)成立の「埃嚢抄」では、短刀が長くなり「野太刀」と呼ぶようになったといい、昔の短刀を今(室町期)は「打刀」と呼ぶと書く。
- 登場後はかなり短めで一尺数寸程度であったのが、太刀を携行しないようになるのと同時に打刀が長くなる。永禄8年に将軍義輝が殺害された時に弟の鹿苑院周暠も殺されているが、その周暠が指していた打刀が二尺五寸あったという。
- こうして長い打刀が太刀に取って代わり、短い打刀は腰刀(もと短刀)に取って代わるようになり、戦国時代末には長い打刀は単に「刀」と呼ばれるようになり、それに添えて指す少し短い打刀を「脇差」と呼ぶようになった。
- 現在の刀(打刀)
「大太刀(おおだち)」
- 長大な太刀。「中取り」、「大長刀」とも
- 古墳からの出土刀に五尺(151.5cm)を超えるものがあり、古くから大太刀を用いたとされる。
- 軍記物では「保元物語」で鎮西八郎為朝が三尺五寸(106.1cm)、「源平盛衰記」の畠山重忠が四尺八寸(145.4cm)が登場する。また「太平記」では五尺三寸(160.6cm)が「其の頃曽てなかりし」と言われるほどの大太刀だったが、後には大高重成が五尺六寸(169.7cm)、福間三郎が七尺三寸(221.2cm)の大太刀を持っている。
- 「応仁記」では武田基綱・一宮勝梅が、また「国府台合戦記」では里見義弘が七尺三寸(221.2cm)の太刀を持っており、さらに「官地論」では富樫政親に藤島友重作の九尺三寸(281.8cm)の大太刀を持たせている。
- また「七十一番職人歌合絵巻」でも、鍔が肩までくる大太刀を杖が割りにしている絵があり、「清水寺縁起」や、「祭礼草紙」「玉石雑誌続編」(ともに前田家蔵)などにも鍔より先が新調ほどもある大太刀の絵が描かれる。
- 古くは武将地震が背中に斜めに背負って出陣し、いちど肩から降ろして刀を抜いて鞘だけをまた背負うか、または背負ったまま従者に抜かせた。また室町時代には、こうした大太刀を従者に持たせることが一種の見えにもなっている。
「大脇差(おおわきざし)」
- 刃長の長い脇差のことで、一尺八寸~一尺九寸九分五厘までのものを本阿弥家で「大脇差」と呼んでいたのが世間に広まったもの。
- その後幕府が度々禁令を出し、一尺八・九寸以上の大脇差を指すものは見なくなったという。
造り(造り込み、剣形)
冠落(かむりおとし)
鵜首造(うのくびづくり)
- 鵜の首を盾から見たような形。
おそらく
- 「おそらく造り」。おそらくこのような形はないだろうという意味から名付けられる。小脇差または短刀に多い。
菖蒲造(しょうぶづくり)
- 剣形が菖蒲の葉に似ていることから。短刀に多い。
両刃造(もろはづくり)
- 両刃
片鎬造(かたしのぎづくり)
- 表裏いずれかが鎬造りで、もう片方が平造り。脇差しと短刀に多い。
作刀時期
古刀 | 平安時代中期~桃山時代末期 | |
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新刀 | 前期 | 慶長元年(1596)~慶安末年(1652) |
中期 | 慶安末年(1652)~元禄末年(1704) | |
後期 | 元禄末年(1704)~安永末年(1781) | |
新々刀 | 天明元年(1781)以降 |
古刀
- 平安時代中期~桃山時代末期=慶長元年(1596)以前
- 五カ伝が確立した時期。
新刀
- 慶長元年(1596)以降~安永末年(1781)
- 前期:慶長元年(1596)~慶安末年(1652)
- 中期:慶安末年(1652)~元禄末年(1704)
- 後期:元禄末年(1704)~安永末年(1781)
- 新刀前期~中期の作をさらに分類する
新々刀
- 天明元年(1781)以降
伝来物・平安以前
- 日本刀と呼ばれるのは刀身に反りが付いている湾刀であることが一大特徴となっている。
- 反りが付く前の刀剣はいわゆる直刀であり、中には大陸や半島由来のものも伝わっている。
日本刀の構造
- 日本刀を他の刃物と比べると以下の特徴がある。
- 平造りや切刃造りではなく、鎬造り
- 鍛錬
- 焼入れ
- 複合素材での構成
日本刀の化学的構造
鎬造り
- 日本刀登場以前の刀は、平造りや切刃造りが主であった。
- これらの造りの違いは、刃の断面を見ることで区別できる。
- 平造り:二等辺三角形状
- 切刃造り:四角形の下に二等辺三角形が付いた形状
- 鎬造り:台形の下に二等辺三角形が付いた形状(しのぎ部分が盛り上がっている)
焼入れ(反り)
- 日本刀に特徴的な反りは、湾曲させて造っているのではなく「焼入れ」と呼ばれる工程で生まれる。
- 焼入れ工程の目的は、刃部に焼きを入れ硬くすること、焼きの有無により刃紋を作ること、刀身に反りを入れることの3つとされる。
- 焼入れの準備作業として、「焼場土」を刀身に盛る作業を行う(土置き)。刃紋の部分を筆で描いた後、その刃紋から棟までに焼場土を厚く盛っていく。その後、刀身を約800度まで加熱した後に一気に水に沈め、急冷する。こうすることで、焼場土の薄い刃側は急冷されることで十分に焼きが入り、焼場土の厚い棟側は比較的ゆっくり冷えることで焼きはそれほど入らない。
- 焼きが入った刃部には急冷されたことで極めて硬い「マルテンサイト」が生じ、除冷された他の部分よりも体積が大きくなる。全体で見ると急冷された刃側と棟側で体積の違いが生じ、棟側が縮むのではなく刃側が膨張することで、その力の差により反りが生まれる。
- これにより日本刀は、引き切りに適した形状へ、また刃が多少欠けてもそれ以上亀裂が進むことない構造へと変わっていく。
- (「金属の中世」-齋藤努「日本刀の素材と刀匠の技術」より抜粋)
複合素材での構成
- 日本刀の刀身は、大きく二重構造になっていることが知られている。
- 鎬造り構造は、芯金と呼ばれる比較的軟らかな部分と、その外側で刃先部分を中心とした比較的硬い部分に分けられる。
日本刀の刀身の構造に共通しているのは、炭素濃度が低く(0.1~0.3%程度)軟らかめの鋼を炭素濃度が高く(0.5~0.7%程度)硬めの鋼で包む「造り込み」という技法が使われている点である。
(「金属の中世」-齋藤努「日本刀の素材と刀匠の技術」)
刃文(刃紋)
- 刃文は刀身の白っぽく見える部分の文様であり、前述したように焼き入れ(焼刃)の際に生じる。
- 刃文には直刃や乱刃があり、その文様の特徴により刀工の流派や作者の癖がよく現れ、刀工を特定する手がかりとなっている。乱刃は大きく波打つ「湾れ(のたれ)刃」、丸い模様が連続する「互の目(ぐのめ)刃」、釘の頭が連続したような「丁子(ちょうじ)刃」などがある。
丁子(チョウジ)とは香辛料として知られるクローブのことで、香りがよく香辛料のほか、生薬として用いられる。チョウジの花蕾は釘に似た形、また乾燥させたものは錆びた古釘のような色をしており、これが連続して並んで見える刃文を「丁子刃」と呼んだ。
チョウジは古くから日本にも伝わっており、丁香(乾燥した花蕾)を口に含んで臭い消しに用いられるほか、花蕾を陰干しして乾燥させたものは鎮痛作用のある生薬として用いられた。また武士はこの丁香を髪や兜に焚きしめたほか、花枝を水蒸気で蒸留して得られる丁子油を刀剣類の錆止めとして用いた。
- 刃文の種類:直刃
- 直刃(すぐは)
- 直線的な刃文を総称して言う。焼き幅(白い部分)が細いものから、糸直刃、細直刃、中直刃、広直刃へと広くなっていく。
- 刃文の種類:乱刃
- 丁子(ちょうじ)
- 丁子の花蕾が連続して並んで見える刃文
- 互(ぐ)の目
- 焼き頭が丸く揃った模様が連続する刃文。頭が丸くなく乱れているものを「互の目乱れ」、丁子が交じるものを「互の目」丁子と呼ぶ。
- 三本杉
- 互の目尖りとも。互の目の頭の部分が三本ごとに大きく飛び出している刃文。杉林に見立ててこう呼ばれる。
- 湾(のた)れ刃
- ゆったりとした波のように見える刃文
- 濤乱(とうらん)刃
- うねりの出た波を模した刃文
- 皆焼(ひたつら)刃
- 刃先部分だけでなく地鉄部分、鎬にまで焼きが入った刃文
- 刃文を構成するものに、「沸(にえ)」と「匂い」があり、焼き入れの際のマルテンサイトの入り方(焼入れ温度の高低)により、名称が異なる。
代表的な直刀
- 丙子椒林剣:大阪四天王寺所蔵、東京国立博物館寄託。国宝
- 七星剣:大阪四天王寺所蔵、国宝
- 水龍剣:重要文化財
- 武王大刀:唐楽に用いる大刀。刃長二尺二寸一分。「東大寺 武王 天平勝宝四年四月九日」
- 破陣楽大刀:一口は刃長二尺二寸一分、一口は刃長一寸九分。「東大寺 破陣楽 天平勝宝四年四月九日」
- 婆理大刀:婆理は度羅楽の曲名。刃長一尺八寸一分。「東大寺 波里」。袋には「東大寺 波里大刀」
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