日向正宗
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日向正宗(ひゅうがまさむね)
- 正宗の作
- 享保名物帳所載
日向(堅田)正宗 長八寸二分 無代 紀伊殿
表護摩箸、石田治部少輔所持、関ヶ原のとき水野日向守殿大坂にて分捕せらるるにより、大坂とも申すなり、日州より借金の形に紀伊大納言殿へ参る、承徳二年十二月南龍院殿より清蹊院殿へ進せらる、初め堅田と申し夫より日向と申す由なり
- 平造り、真の棟、無反り。差表にある護摩箸は本阿弥光徳が彫らせた追刻。鋩子小丸、深く返る。中心うぶ、目釘孔3個、無銘。
由来
- それ以前には「堅田正宗(片田正宗)」と呼ばれたというが、その由来は不明。
江州堅田2万石の領主堅田広澄より贈られたものとされる。堅田広澄は秀吉に仕え堅田で2万石を領した。関が原の戦いで西軍につき、没落した。堅田氏から秀吉を介さずに三成に伝わった可能性があるが詳細不明。
来歴
秀吉・石田三成
- 元は秀吉が所持し、その後石田三成に下賜されたものと思われる。
福原長堯
- 石田三成から妹婿の大垣城主福原右馬介直高(福原長堯)に与えられる。
水野勝成
- 関ヶ原の戦いの後、大垣城での戦いにおいて水野日向守勝成が分捕った。水野勝成の官名「日向守」から「日向正宗」と名付けられた。
紀州徳川家
- 承応2年(1652年)12月に頼宣から子の光貞に贈られている。
承応二年午十二月南竜院殿(徳川頼宣)ヨリ清渓院殿(徳川光貞)ヘ被進
- 以後紀州徳川家伝来。
- 元禄11年(1698年)5月に本阿弥三郎兵衛に鑑定に出されている。
- 享保4年(1719年)に本阿弥家から問い合わせを行っていたことを、のちに本阿弥長識が名物帳写本に注記している。
享保四亥年十一月名物帳出来ニ付、紀州殿ヘ四郎三郎ヨリ問合処、承応二年午十二月南竜院殿(徳川頼宣)ヨリ清渓院殿(徳川光貞)ヘ被進、元禄十一寅五月(本阿弥)三郎兵衛ヘ吟味遣ス、前ハ堅田ト唱ヘ候得共、夫ヨリ日向トアリ。
- その後、紀州徳川家代々に伝わる。
三井家
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