斎藤一
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斎藤一(さいとうはじめ)
新選組隊士
副長助勤、三番隊組長、撃剣師範
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生涯
新選組入隊まで
- 播磨国明石藩の足軽であった父・山口祐助、母・ますの三子として生まれる。父が明石出身であったことから明石浪人を名乗った。
- 父はのち江戸へ出て石高1,000石の旗本・鈴木家の公用人(家来)となった。
- 斎藤一は、19歳のときに江戸小石川関口で旗本と口論になり、斬ってしまう。父の友人である京都の聖徳太子流剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代を務めた。
- 新選組加入前の行動はよくわかっていない。
新選組
- 文久3年(1863年)3月10日、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組(精忠浪士組)を結成。同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなる。
- 新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。元治元年(1864年)12月編成時には四番組頭、また元治二年(1865年)4月の組織再編成の際には三番隊組長となり、撃剣師範も務める。
- 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた。
- 新選組内部での粛清役を多く務めたとされ、長州藩の間者(スパイ)であったとされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助のほか、武田観柳斎、谷三十郎らの暗殺に関与したといわれる。
- 慶応3年(1867年)3月、伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると、斎藤も御陵衛士に入隊する。間者として潜入していたとされる。稗田利八の述懐によれば、斎藤が新選組に戻った際、「副長助勤斎藤一氏、公用をもって旅行中のところ、本日帰隊、従前通り勤務のこと」と掲示が出ていたという
戊辰戦争
- 鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼と転戦。近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に残った土方歳三らと一旦別れ、隊士の一部を率いて会津へ向かったとされる。※流山にはいなかったという説もある。
- この後会津にて会津藩の指揮下に入り、白河口の戦い、母成峠の戦いに参加し、敗戦により若松城下に退却。土方と合流したのはこの退却の最中、猪苗代でのことだった。
- 土方らは庄内へ向かったが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた(会津新選組)。
- 松平容保が派遣した使者の説得によって投降し、のち越後高田で謹慎生活を送る。改易されていた会津藩が斗南藩として再興されると斎藤もこれに従い下北半島へ移る。
結婚
- 斎藤は斗南藩領の五戸に移住し、篠田やそと結婚した。明治7年(1874年)3月、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚している。この時、氏名を藤田五郎に改名している。
- 時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の子供を儲けている。
明治後
- 明治7年(1874年)7月、東京に移住。警視庁に採用される。翌年の西南戦争では別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として参加し、斬り込みの際に敵弾で負傷するも、大砲2門を奪取するなど奮戦して、東京日日新聞に報道される。
- 斎藤は政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与された。麻布警察署詰外勤警部として勤務し、明治25年(1892年)12月、48歳で警視庁を退職する。
- 警視庁退職後は、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館)の看守(守衛長)、のち東京女子高等師範学校に庶務掛兼会計掛として勤務している。
- 大正4年(1915年)9月28日死去。胃潰瘍であった。享年72。
- 斎藤は、最期の時、床の間で結跏趺坐をして往生を遂げたという。また遺言により、戊辰戦争の戦死者が多く眠る福島県会津若松市七日町にある阿弥陀寺に時尾とともに葬られた。
逸話
刀
刀
銘 摂州住池田鬼神丸国重/天和二年九月日
二尺三寸一分
- 摂津の刀工、鬼神丸国重の刀を愛用したと伝わる。
ただしこの記述は「源龍斎俊永覚書(京都守護職様御預新選組御一等様御刀改控 元冶元年六月七日 京壬生住研師源龍斎俊永記録)」に記載されているものであり、現在ではこの覚書には疑義があるとされる。
剣術
- 斎藤の修めた剣術の流派は、はっきりしていない。子孫の言い伝えでは一刀流であるとされてきた。無外流であるともいう。
撃剣師範
- 新選組では沖田総司、永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったといわれる。永倉が弟子に語った言葉に、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」とある。
- 後年、刀での実戦について次のように語っている。
どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです。
- 50歳頃から務めた東京高等師範学校では撃剣師範となり学生に剣術を教えたが、その剣技は衰えることなく、誰ひとりとして斎藤の竹刀に触れることさえできなかったという。
左利き説
- 斎藤一は左利き(通常とは逆に構える)であったという説が広く膾炙している。これは現代では「るろうに剣心」の影響によるところが大きいと思われる。
ただし「るろうに剣心」でも鞘は通常の左差し、右手での抜刀となっている。あくまで牙突を繰り出す際の構えにおいて、大きく左肩を引いた片手での構えとなっている。
- 斎藤一左利き説の起源は、子母澤寛の「新選組物語」のなかで、次のように描写されていることであるとされる。
暗殺された谷三十郎の死体を検分した篠原泰之進が、傷口が左の突きであったことから“左片手一本突き”を得意技とする斎藤が下手人ではないかと疑った。
- ※子母澤は「左利き」とは書いていない。
- なお斎藤一の子孫により、斎藤本人は右利きであったことが伝えられている。
肖像画
- 斎藤一の肖像画として広まっているモノクロで分厚い唇を持つ人物像は、長男の勉氏をもとに描かれた肖像画であり、本人の写真や肖像画ではない。
- 従来斎藤本人の写真は残っていないとされていたが、近年、次男の結婚式に参列する晩年(死の2年前、大正2年9月69歳時)の齊藤一の姿が写っている写真が保存されていたことが明らかとなった。
男性ばかりが多数写っている写真ではなく、親族一同で写っているもので斎藤一は後列中央右側に白髭をたたえた姿で写っている。写真は個人蔵だが、複写を会津新選組記念館(会津若松市七日町)などで見ることができる。なお男性ばかりが映っている「西南戦争に従軍した警視隊の写真」に写っている斎藤とされる人物は、子孫により別人であると否定されている。
- さらに2016年7月、親族の蔵から2015年秋に出てきた写真2点が、次男の子孫である藤田家より公開された。斎藤1人が写っている写真と、家族4人(斎藤一、妻のトキヲ、長男の勉氏、次男の剛氏)で撮影された写真の両方に斎藤一が確認できる。これらの写真には、明治30年(1897年)当時53歳で紋付袴姿の斎藤が鮮明に写っている。
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