微塵丸
微塵丸(みじんまる)
太刀
木曽義仲に伝わる三振りの刀の1つ
仇討ちで有名な曽我兄弟の曽我物語に登場する
微塵丸
3尺3寸(約100cm)、重ね4分(1.2cm)
箱根神社所蔵(太刀・微塵丸)
- 備前の長円作というが、豊前の長円とされる。
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微塵
此の刀と申すは、木曾義仲の三代相伝とて、三つの宝有り。第一に、竜王作の長刀、第二に、雲落とし(蜘蛛威)と言ふ太刀、第三に、此の刀也。名をば微塵と言ふ。通らぬ物無ければなり。然れば、此の三つの宝を秘蔵して持たれたり。御子清水御曹司、鎌倉殿の聟になり給ひて、国の大将軍賜はりて、海道を攻め上り給ひ候ふ由聞こえければ、彼の宝を祈りの為とて、此の御山へ参らせらる。宝殿の事は、一向別当の計ひたるに依りて、是を御分に奉る。高名し給へ
- 寿永2年(1183年)3月、木曽義仲は叔父の志田義広と新宮行家を庇護した事から源頼朝との対立が避けられない状況となり、嫡子源義高(清水冠者)を人質として差し出し和議を結ぶ。
- この時に、箱根権現に清水冠者の安全を祈願し、この「微塵」を奉納したという。
- のち、建久4年(1193年)5月、仇討ちで有名な曾我兄弟が箱根権現を訪れた際に、別当行実がこの微塵を取出し、兄である十郎祐成が佩用することになる。
一説に木曽義仲が奉納したのは短刀といい、曾我祐成が佩用したのは大太刀で別物になっている。
- 曾我祐成の死後、源頼朝が再び箱根権現に寄進する。
仁田四郎忠常と一騎打ちをした際に鍔元から折れてしまったともいう。
後日譚
五郎の生まれ変わり
- 甲斐の祐成寺の僧が箱根山で、曾我兄弟の十郎の亡霊にあったという話がある。
- その亡霊の云うには、弟の五郎は武田信玄に生まれ変わったという。証拠を尋ねると、太刀の目貫を外して見せ、これと同じものを信玄公もお持ちのはずだというので、その僧が帰って信玄にその目貫を見せたところ、果たして信玄の佩刀に同じ目貫がついていたという。
- そこで、十郎の供養のためにその僧に祐成寺を建ててやり供養を命じたという。武田家滅亡後にこの寺は荒廃していたが、元禄11年(1698年)幕府に寺の由緒を説明し、再興を願い出ている。信玄の弟信真の子孫である武田越前守に尋ねると、その目貫は越前守の脇差についており、竜の金無垢目貫であったという。
われ、信玄に傳言すべし。通じたまはれ。某は曽我祐成(曾我十郎)にてありし。これなるは
妻 の虎 、信玄は我弟 の時宗(曾我五郎時致)なり。かれは若年より此山にあつて、佛經をよみ。佛名 を唱ふるの功おぼろげにあらずして、今名将となり。(略)
僧思ひきはめて甲陽に越て。それぞれの便 をえて、信玄へかくと申入れしかば、件の目貫見たまふて不審 き事かなとて。秘藏の腰物をめされ見たまへば、片方の目貫にて有しかば。是奇特の事とて、僧に褒美たまはり。頓 て一宇をいとなみ、祐成寺と號 けたまへり。
しかしより星霜 良古 て、破壊 におよびしかば、元禄十一年に共住持、しかじかの縁起いひ連ね、武江へ再興の願たてし事、松平攝津守殿きこしめされ。武田越前守殿へ、其事、いかゞやと尋ねたまひしかば。その目貫こそ、只今某が腰の物にものせしとてみせたまふに、金の蟠龍 にてありし。
(甲州祐成寺の來由)
十郎太刀のその後
- 寛文7年(1667年)、参勤交代の道中を記した池田綱政の「丁未旅行記」に「微塵」が登場する。備前物で、鍔元に2ヶ所切込み痕があったという。
寛文丁未七年仲夏始の十日餘り。(略)
岩の隙を過て峠に着きぬ。箱根の御社新に御造営と聞けば。日も高し今日は道の程も近ければとて征きぬ。別當の坊へ行て。此度伴ひし人々初めて當社に詣り侍れば。願はくば寶物を見せて給べと。ほうしゆんといふ法師に頼めば。ことなく取出して見せ侍りぬ。見ぬ人の為に概略書附け侍りぬ。
一、太刀 二腰。(一は薄緑とて時宗が太刀。往古源氏重代の太刀作り。宗近と云銘あり。一は微塵。祐成が太刀。鍔本に二個切込あり。備前物の由)
(丁未旅行記)
- 延亨(1744)ごろ、菊岡沾涼が箱根神社で拝見しており、その時は十郎所持の太刀は「長閑の太刀」と呼ばれていた。
菊岡沾涼(きくおか せんりょう)は江戸中期の俳人、作家。諱は房行、通称は藤右衛門、別号に崔下庵、南仙、米山など。
- 天明3年(1783年)に榊原香山が拝見した時は「微塵丸」という名前になっており、刃長三尺五寸の兵庫鎖の大太刀で、祭礼の際の貸し太刀のたぐいであったという。
榊原香山(さかきばら こうざん)は江戸時代中期の武士(旗本)、儒学者で有職故実の大家。名は長俊。香山は号。字は子章。別号に五陵香山、忘筌斎がある。通称、一学。伊勢貞丈に師事、武家の故実に長け、武器研究家として著名だった。
- 寛政7年(1795年)捧檍丸が拝見した時は刃長三尺三寸と短くなり、拵えもまったく別物になっていた。しかし名称は同じく微塵丸のままで、刀身は備前(豊前)長円の作と説明されていたという。
友斬り
武悪大夫作
様々な名前を持つ
ぶあく大夫(武悪大夫)作
此の太刀と申すは、昔頼光の御時、大国よりぶあく大夫と言ふ莫耶を召し、三ケ月に作らせ、一月にみがかせ二尺八寸に打ち出だす。秘蔵並ぶ物無くして持たれける。
頼光「朝霧」
或る時、此の太刀を枕にたてられし時、俄に雨風ふきて、此の太刀をふき動かしければ、刃風に、側なりける草紙三帖が紙数七十枚きれたりけり。頼光、てうか(朝霧)と名付けて持たれたり。
- ある時、にわかに雷雨となり枕元においていた太刀を動かし、揺れるたびに側に積んであった草子を70枚も切ってしまっていたために、「朝霧(ちょうか)」と名づけたという。
河内守頼信「虫喰み(むしばみ)」
其れより、河内守頼信のもとへ譲られぬ。其れにての不思議に、此の太刀をぬかれければ、四方五段ぎりの虫も、翼もきれ落ちにければ、虫ばみとぞ付けられける。
- 頼信に伝わった時に、この太刀を抜くと周りを飛んでいた羽虫が刃にあたり切れていたため「虫喰み(むしばみ)」と名づけたという
頼義「毒蛇」
其れより、頼義のもとへ譲られたり。其れにての不思議には、折々御所中震動して、人死にうする事、度々なり。或る時、頼義、此の太刀を枕にたてられしに、例の如くに、雷電はげしくして、御所中騒がし。此の太刀、己とぬけ出でて、大地一丈が底に入り、斯かる悪事仕る大蛇の尾頭九尋有りけるを、四つにこそは切りたりける。其の後よりぞ、御所中の狼籍も止まりける。あやしみて、跡を尋ね尋ねて見給へば、斯かる不思議をしたりければ、毒蛇と名付けて、持たれたり。
- 頼義に伝わった時、御所で妖怪変化が現れ混乱が起きていた。ある日、地揺れが起きた時に、この刀がひとりでに鞘走り、抜け出た拍子に地面に突き刺さった。地面を掘らせてみると九尋もある大蛇が死んでいたという。そこで「毒蛇」と名づけたという。
八幡太郎義家「姫切」
其れよりして、八幡殿へ譲られける。其れにての不思議には、其の頃、宇治の橋姫の、あれて人を取ると。或る夕暮に、八満殿、宇治へ参られけるに、人の申すに違はず、川の水波しきりにして、十八九計なる美女一人、橋の上に上がりて、八満殿を馬よりいだき下ろし、川の中へ入れんとす。彼の太刀、己とぬけ出でて、橋姫の弓手の腕を切り落とす。力及ばず、川へ飛び入りぬ、其れより、宇治の狼籍も止まりけり。然れば、此の太刀、姫切と名付けて、持たれたり。
- 八幡太郎義家の時、宇治の橋姫という妖怪が現れ人をさらっていた。ある夕暮れに義家が宇治橋に行くと、この刀がひとりでに鞘走り、橋姫の左腕を切り落としてしまったという。そこで「姫切」と名づけたという。
判官為義「友切」
其れより、六条の判官為義のもとへ譲られたる。其れにての奇特には、此の太刀に六寸ばかり勝りたる太刀を立て添へて置かれたり。夜に入りぬれば、切り合ひける。判官、此の由聞き給ひて、予てより様有る物をとて、五夜までこそ立て添へて置かれけれ。五夜の間、隙無く戦ひて、六夜と申すに、我が寸に勝りたるを、安からずとや思ひけん、余る六寸を切り落とす。然れば、友切と名付けて、持たれたり。
九郎判官義経
源氏重代にも伝ふべかりしを、保元の合戦に、為義切られ給ひ、嫡子左馬頭義朝の手へ渡りけるに、仏法守護の仏とて、鞍馬の毘沙門に込め給ふ。然れども、過ぎにし合戦に、父を切り給ひしかば、多聞も受けずや思し召しけん、合戦に打ち負け、東国差して落ち給ふ。尾張の国知多郡野間の内海と言ふ所にて、相伝の家人鎌田兵衛正清が舅、長田の四郎忠致に打たれ給ひて後、伝ふべき人無かりしに、
義朝の末の子九郎判官殿、未だ牛若殿にて、鞍馬の東光坊のもとに、学問して御座しけるが、如何にして聞き給ひけん、折々、毘沙門に参り、「帰命頂礼、願はくは、父義朝の太刀、此の御山に込められて候ふ。父の形見に、一目見せしめ給へ」と、祈念申されければ、多聞、哀れとや思しけん、此の太刀を下し給ふと、夢想を蒙り、喜びの思ひをなし、急ぎ参りて見奉り給へば、現に御戸開き、此の太刀有り。盗み出だし、深く隠し置きて、十三になり給ひける年、相伝の郎等、奥州の秀衡を頼み、商人に伴ひて、下り給ひけるに、美濃の国垂井の宿にて、商人の宝を取らんとて、夜討の多く入りたりしか共、おきあふ者も無かりしに、牛若殿一人おき合ひ、究竟の兵十二人切り止め、八人に手を仰せて、多くの強盗追つ返す、高名したる太刀也とて、奥州まで秘蔵せられけるに、十九の年、兵衛佐殿謀叛を起こし給ふと聞こし召し、鎌倉に上り、見参に入り、幾程無くして、西国の大将軍にて、発向せられけるに、今度の合戦に打ちかたせ給へとて、此の御山へ参らせられ給ひて候ふ。
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