当引長光


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 当引長光(あてびきながみつ)

太刀
長光
二尺四寸九分

  • 「宛引」「導引」とも。
  • 備前長船長光作の太刀
Table of Contents

 来歴

 秀吉→島津家久

  • もとは島津家久(忠恒、初代薩摩藩主)が豊臣秀吉の遺物として賜ったものであるという。

    鹿兒島矦家久松平薩摩守貞山公ヲ京師ノ邸ニ訪フ、公之ヲ饗ス、矦重長ヲ召見シ、大坂ノ功ヲ賞シ、當引長光ト称スル刀ヲ賜フ、太閤秀吉ノ遺物ト云フ、

    秀吉公御遺物」には記載が無いため、いつ贈られたものかは不明。形見分で島津義久が拝領したのは「鷹の巣宗近」で、島津兵庫頭義弘は金三十枚。

    同様の経緯で秀吉の蔵刀長光を家康経由で拝領しており(千引長光、織田三七信孝の切付銘あり)、それとも異なっている。

 島津家久→伊達政宗

  • 慶長19年(1614年)大坂冬の陣のあと、島津家久(忠恒)が伊達屋敷を訪れた際、政宗に御家来の片倉小十郎(重長)殿を呼んでいただきたいと所望した。
  • そこで政宗が小十郎を臨席させると、先の戦での貴公の戦いぶりは見事であったといい、この長光を小十郎に贈ろうとした。
  • しかし、小十郎は恐れ多いことであるとして、主人の政宗に賜りたいと断り、あらためて家久から政宗に贈られたもの。
    なお初代の小十郎(片倉景綱)はこの頃すでに体調を悪くしており翌年の元和元年(1615年)10月に病死している。この逸話の小十郎とは、その息子片倉重長である。また重長が後藤基次を打ち取り名を挙げたのは翌年の夏の陣でのことであり、この逸話自体が翌年の元和元年(1615年)の話である可能性が高い。
  • 寛永2年(1625年)12月、政宗はこの刀の礼を含む書状を島津家久に送っている。

    (前略)将又先年於京都預候宛引之刀鍔鎺態御在所被仰遣預候鍔古御座候而別而見事ニ御座候卽仕合可申候何様以貴面可申伸候恐々謹言
    尚々忝次第雖申盡候以上
                    松陸奥守
     極月廿日            政宗御書判
     松薩州様
         御報

    この大坂夏の陣で「真田日本一の兵」の言葉を手紙に残したのも、この島津家久である。ただし島津家は両度の大阪の陣には出陣していない。

    この手紙は、寛永2年に比定されている。島津家より琉球酒及び蜜柑、刀の鍔鎺を贈られたことへの礼状である。なぜ島津家が10年もあとに当引長光の鍔鎺を贈ったかはよくわからない。もしかすると当引長光が贈られた時がもっと遅かったのかも知れないが、詳細は不明。
     島津家久は寛永15年(1638年)死去、伊達政宗は寛永13年(1636年)死去。

  • 政宗は隠居したら差料にするといっていたが、差料にする前に没したという。

    公毎年元日ニハ(略)隠居ノ時ハ宛引カ鏁切ノ刀ナト善シト仰セラル、宛引ハ島津殿ノ指刀ナリ後ニ片倉小十郎ニ下サル、鏁切ハ庭籠雛ノ前ニ張タル銅ノ鏁ヲ三尺計リハラリト截リタルナリ

 伊達綱村→片倉村長

  • 天和3年(1683年)11月6日、政宗の曾孫に当たる伊達綱村が、片倉景綱の曾孫にあたる片倉村長(初名政長)へと下賜した。

    公依命政長於 御城前髪取之于時十八歳、御諱字下被染 御直翰也、改政長号村長、小十郎ニ名改被 仰付、向來家中領内仕置等可任心之旨 御直々蒙其 命也、備前元重之刀代金五枚献上之、則着座御吸物 御相伴 御盃頂戴之上、備州義景代金十三枚御腰物拝領之
     是昔時 貞山公松平薩摩守殿家久御見舞御饗応之時分、祖父重長給之当引長光ト云刀之由也、重長早速公指上候、爾來隔年今到此節、従 肯山公村長拝領之、永為家珍者也

    片倉村長は1681年(延宝9年)に家督を継ぎ、1691年(元禄4年)には享年26で病死している。一字拝領した際に贈られたもの。なお村長の村は綱村の一字を拝領したものであり、さらに綱村は徳川家綱から偏諱を与えられて初名綱基から改名したものである。

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