山姥切
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山姥切(やまんばぎり)
- やまんばぎり
作刀
- 長義作
- 長義(ながよし、ちょうぎ)は通称は藤左衛門。相伝備前と呼ばれる南北朝期の備前鍛冶の中で兼光と並んで優れた技術を示す刀工。正宗の門人で正宗十哲のひとりという。この「山姥切」のほか、兜もろとも八文字形に斬り捨てた「八文字長義」などが有名。
由来
来歴
後北条氏→長尾顕長
- 北条家に伝来し、天正14年(1586年)に長尾顕長に下賜。
天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也
- これらの来歴は、国広が打った銘により判明している。
尾張徳川家
- 延宝9年(1681年)6月に代金152両1分にて徳川光友が買い求め、その後尾張徳川家に伝来した。
徳川光友(初名光義)は尾張徳川家初代義直の長男として寛永2年(1625年)名古屋にて生まれる。父の死に伴い、慶安3年(1650年)に家督相続。寛文12年(1672年)に諱を光友へと改める。延宝9年(1681年)に次男松平義行、天和3年(1683年)には三男松平義昌への新知を認められ尾張徳川家の連枝を整備した。本刀を買ったのはちょうどこの時期に当たる。元禄6年(1693年)嫡男綱義(綱誠)に家督を譲って隠居。元禄13年(1700年)死去。武芸や茶道、唐楽、書など諸芸に優れ、剣術は柳生厳包(柳生連也斎)より学び新陰流第6世を継承した。
正室は将軍家光の長女霊仙院千代姫。寛永14年(1637年)閏3月に生まれた後、生後1年の寛永15年(1638年)2月に光友と婚約し、翌寛永16年(1639年)9月に2歳6ヶ月で婚姻した。光友との間に、綱誠(尾張3代藩主)、義行(後の高須藩主)など4人の子をもうけた。なお千代姫の婚礼道具は、将軍家の威光を示すものとして豪華絢爛を極め、その調度類は現存し「婚礼調度類〈(徳川光友夫人千代姫所用)>」として国宝指定されている。徳川美術館所蔵。
- 昭和14年(1939年)9月6日に重要美術品指定、尾張徳川黎明会所蔵。
刀 銘本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住國廣銘打云々 財團法人尾張徳川黎明會
(昭和14年文部省告示第四百九號)
尾張徳川黎明会は昭和6年(1931年)の設立。昭和10年(1935年)には徳川美術館が開館している。
- 昭和24年(1949年)2月18日に、旧国宝(国宝保存法に基づく)に指定。
刀 銘本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住國廣銘打長尾新五郎平朝臣顕長所持云々 尾張徳川黎明会
(昭和24年文部省告示第十六号)
- 昭和25年(1950年)、文化財保護法施行により重要文化財指定。
- 現在も、尾張徳川家ゆかりの徳川美術館で所蔵している。
銘について
- もともと無銘だったのか、または大磨上されていたものに対して、天正18年5月長尾顕長の依頼を受けて堀川国広が「本作長義…」という長い銘入れを行っている。
依頼を受けた際に、国広が磨上と銘入れを行った可能性もある。 - なお「顕長所持云々」は重要文化財指定の折に略されたもので、正しくは次のような文章となっている。
本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住国広銘打天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也長尾新五郎平朝臣顕長所持
つまり、天正14年7月21日に小田原城に参上した際に北条氏政から下賜されたもので、4年後の天正18年5月3日に依頼を受けた国広が銘打ちをしたものとわかる。
上記銘文は所蔵館監修・編集の書籍を引用したものだが、近年同館では、この銘を「本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住国広銘打 長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也」としているようである。※2020年時点での状況。要するに”天正十四年”云々という拝領経緯を示す文を最後に置いているだけで、当然ながら打たれた銘文が変わったわけではなく大意も変更なし。SNSなどで銘全文をつぶやく方などは注意されたし。
時系列
- 山姥切と山姥切国広の出来事が入れ子になっているため混乱しやすいが、次の時系列となる。
年月日 | 長尾顕長視点での出来事整理 | |
山姥切[長義作] | 山姥切国広[国広作] | |
文和~康暦頃 (1352~81年頃) | (長義により作刀) | |
天正14年7月 (1586年) | 北条氏政から「山姥切」拝領 | |
天正18年2月 (1590年) | 国広に山姥切の写し作刀依頼 [九州日向住国広作] | |
天正18年5月 | 国広に銘入れ依頼 [本作長義] |
堀川国広は当時諸国放浪中で、ちょうど天正18年頃に足利で鍛刀したことがわかっている。その時に写し(「山姥切国広」)を依頼し、出来が素晴らしかったため元の「山姥切」にも銘を入れさせたと思われる。国広には天正19年には京都に住すという銘もあるため、その頃には上京したものと思われる。
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