太郎太刀
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太郎太刀(たろうたち)
- ここでは真柄一族が使用したと伝える刀も合わせて記述する。
由来
- 元亀元年(1570年)姉川の合戦において、越前国真柄荘の国人衆として朝倉方に参加していた真柄直隆が振るったとされる五尺三寸の大太刀。
なお「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。
- なお一般名詞として、所蔵する刀のうち最大・最長のものを「太郎太刀」とも呼ぶ。
真柄直隆(まがら なおたか)
- 天文5年(1536年)生まれ、元亀元年(1570年)6月28日没。
- 戦国大名朝倉氏の家臣。十郎左衛門。
- 弟に真柄直澄、子に真柄隆基。
- 越前真柄庄の国衆として、朝倉氏の客将となる。但し真柄氏は、朝倉家中においては堀江氏などとともに在地性・独立性が強い国人衆であった。越前に足利義昭が頼ってくるまでは、朝倉氏に臣従的態度を取りつつも軍役を一部負担するだけ(すなわち被官)という立場で朝倉家の完全な家臣という立場ではなかったとされる。
- 北国の豪傑として、朝倉家中でも知られる人物で講談(講釈)や軍記物にしばしば登場する。
- 江戸時代成立の「朝倉始末記」では、流浪時代の足利義昭が朝倉義景を頼り一乗谷に来た際に、御前で9尺5寸(約288cm)もの大太刀を頭上で軽々と数十回振り回して豪傑ぶりを披露したという。
- 元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは「太郎太刀」を振って奮戦するも、朝倉陣営の敗戦が濃厚になると、味方を逃がすべく単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突き進んだが、討ち取られた。
真柄直隆の最期
- 豪傑真柄直隆の最期は数々の書物に描かれている。
- 信長公記
- 真柄十郎左衛門、此の頸青木所左衛門(一重)是を討ち取る。
- 信長記
- 真柄十郎左衛門父子三人、(略)中にも真柄は大力の剛の者なれば、五尺三寸の大太刀を真向にさしかざし取て返し、四方八面に切て廻りければ四五十間四方は小田をすき返したるが如くにぞ成たりける。(略)是は真柄十郎左衛門尉と云兵也。志の者のあらば、引組で勝負はせぬかと云聲を聞て、是は徳川が郎党勾坂式部と云者也。(略)式部が弟勾坂五郎次郎助来て、真柄に渡合せ戦いけるが餘りに強く撃程に、蜻蛉に請流す所を拝み切に切て勾坂が太刀を鎺本よりづんと切て落し、餘る太刀にて弓手の股をなぎすゑたる。既にあやうく見えける所を勾坂六郎五郎是を見付て、透間もなく助来るに郎党の山田宗六、我が主を討たせじやと(後略)
- 当代記
- 「信長記」を簡略にした内容で勾坂式部兄弟が討ち取ったとする。
- 浅井三代記
- 「信長記」とほぼ同じ内容。「五尺三寸の大太刀」
- 徳川実紀
- 北國に名をしられたる真柄十郎左衛門など究竟の勇士等あまたうたれたり。
- 信長記にいう真柄父子三人とは、直隆と弟の直澄、直隆の子の隆基を指すと見られる。
┬真柄直隆(十郎左衛門)──真柄隆基(十郎三郎) └真柄直澄
- 子の十郎三郎隆基の太刀は四尺七寸(142.4cm)という。
伝来
- 文亀(1501)ごろ、越前に大力の者がおり、備前長船にいって祐定に長さ五尺三寸(160.6cm)、幅二寸三分(7cm)、重ね五分五厘(1.7cm)の大太刀を注文した。祐定は祐清、祐包と協力してこれを打ち上げた。試し切りしたところ四ツ胴を落としたという。
- これが後に真柄十郎左衛門に伝わったという。
- 十郎左衛門の死後、太刀は行方不明だったが鞘だけが九鬼家に伝来し、寛政ごろまで同家にあったという。
現存
真柄太刀
- 神宮の社伝によれば、真柄十郎左衛門所持という。
其中有稱眞柄之太刀。是越前國眞柄十郎左衛門所持也。
- 通称「太郎太刀」
- 天正4年(1576年)奉納
真柄隆基所用
- 通称「次郎太刀」
- 元亀元年(1570年)8月奉納
真柄大太刀
大太刀
銘 行光
真柄直隆所用
刃長6尺1寸5分余(186.5cm)、総長8尺4寸8分(257cm)、身幅5.0cm、反り3.3cm
白山比咩神社所蔵
- 通称「真柄大太刀」
- 生ぶ茎、目釘孔2個。棒樋。佩表の鎺元近くに「行光」と小さい二字銘。室町時代中期の永正初年頃の作と見られる。※高名な相州行光(藤三郎行光)と混同されている方が居るようですが時代が違います。
- 刀身の奉納時期は不明ながら、拵えは加賀藩3代藩主前田利常が名工後藤才次郎吉定に命じて飾金具を作らせ寛永5年(1628)に奉納したものと箱書きされている。
寛永五年戊辰暦十一月吉日 加州金沢住後藤才次郎吉定
十郎三郎所持の槍
槍
三角穂
銘 真柄十郎三郎直基造之 永禄七年八月日
一尺二寸(36.4cm)、幅一寸四分五厘(4.4cm)
- 真柄直隆の長男十郎三郎が所持したという槍。
- 出羽庄内藩の藩士の家に伝来したという。
真柄斬り
- この真柄直隆を討ち取った際に使用したものだとする「真柄斬り」と号する太刀が徳川家臣青木所右衛門一重から贈られ、丹羽長重の家に伝わった。
- この「真柄斬り」の伝来に従えば「信長公記」の「真柄直隆は青木所左衛門(一重)が討ち取った」という伝が正しくなるが、一般には息子の真柄隆基を討ち取ったものとされている。
つまり「信長記」の伝を採用し、真柄直隆は勾坂兄弟が討ち取ったとする。ただし小瀬甫庵による「信長記」は、一般的には太田牛一著の「信長公記」よりも脚色要素が強く資料的価値は落ちるとされる。
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