堺志津
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堺志津(さかいしづ)
短刀
銘 兼氏
名物 堺志津
8寸9分8厘(27.2cm)、反り1分5厘(0.5cm)
徳川記念財団所蔵、東京国立博物館寄託
- 平造り、首のくびれた地蔵鋩子。拵えの二所ものは葵紋三双で後藤光理作。
由来
- 堺から出たため。
是ハ摂州堺より出ルを以異名トス、
来歴
- 徳川家に入るまでの由来は不明。一説に、家康が堺で買い求めたともいう。
- 正保4年(1647年)11月27日、徳松(綱吉)の髪置きの祝の際に、後の4代将軍家綱が短刀を贈っている。
廿七日吉辰なればとて。大納言殿御方(家綱)にて徳松君(綱吉)髪置の式行はる。大納言殿より光忠の御刀。堺志津の御脇差をさづけたまふ。次に御所へも徳松君より光忠の刀。太刀。馬代金。小袖十さゝげられ御盃給ひ。光包の太刀を給ふ。
この時点では家光が将軍で、寛永18年(1641年)生まれの家綱は7歳。2年前の正保2年(1645年)4月に元服、西の丸に移ったのは慶安3年(1650年)で翌年4月に家光が薨去し、将軍宣下を受ける。
- 元禄16年(1703年)本阿弥で千貫の折紙をつけている。
- 享保10年(1725年)8月23日、大納言家重が西城へ初めて移った時に、吉宗へ贈っている。
廿三日大納言殿(家重)西城にうつらせたまひし後。はじめて御饗應あり。よて來國俊の御太刀。備前國吉用の御刀を進らせらる。大納言殿よりも堺志津の御さしぞへを獻りたまふ。
- 元文2年(1737年)5月28日、竹千代(家治)七夜の祝として吉宗から正宗とともに与えられる。
廿八日西城にて七夜の御祝あり。三家の方々をはじめ。群臣慶賀し奉り。酒羹。もちゐをたまはる。万石以上盃臺を下さる。けふ若君御名まいらせられ。竹千代君と稱せらる。この御名は東照宮。大猷院殿の御稱なれば。憚り思召といへども。老臣しゐて申むねあるにより。名づけさせたまふの御旨を出仕の輩へ傳へらる。また御生母をば御部屋のかたと稱せらるよしをも仰出さる。この賀儀によて。本城より本多中務大輔忠良御使して。大納言殿に銀百枚。綿百把。三種二荷。竹千代君に正宗の御刀。堺しづの御さしぞへ。
- 宝暦12年(1762年)11月朔日、竹千代(家基。早世)の七夜の祝として家治から、「亀甲貞宗」とともに贈られる。
- 寛政2年(1790年)4月に上覧。
四月廿四日、左之御道具
上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
一、堺志津兼氏
是ハ摂州堺より出ルを以異名トス、
- 現存し、徳川宗家が設立した徳川記念財団が所蔵する。
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