南宗寺


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 南宗寺(なんしゅうじ)

臨済宗大徳寺派の寺院
大阪府堺市堺区南旅篭町
山号 龍興山

 概要

  • 三好氏の菩提寺。
  • 茶人の武野紹鴎千利休が修行をした縁の寺であり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。

 歴史

  • 元は堺南荘(舳松町)にあった古岳宗亘(こがく そうこう)大徳寺76世)の庵で、大永6年(1526年)8月に「南宗庵」と名付けた。
  • 古岳宗亘は庵を法嗣の伝庵宗器(でんあん そうき)大徳寺88世)に継がせたが、宗器が天文2年(1533年)3月に示寂したため、もうひとりの法嗣だった大林宗套(だいりん そうとう)大徳寺90世)が南宗庵3代目となっている。
  • 天文21年(1552年)三好長慶は、父・三好元長の菩提を弔うべく大林宗套に開山を依頼して、南宗寺を創建せんとする。弘治2年(1556年)7月には七重の塔と三好神廟の斧始を行っている。創建当時は堺市宿院町付近にあったという。以後毎年5月12日を例祭日と定めたという。
  • この時武野紹鴎もまた旧庵を一新して宗套を開山としていたため、紹鴎も開寺後十檀越に数えられている。
  • ただし落成したのは永禄11年(1568年)正月の宗套の死後、笑嶺宗訢(しょうれい そうきん)大徳寺107世)が2代目の住持を務めていた時代で、山号を「龍興山」と名付けたのも宗訢である。
  • 永禄年間には松永久秀は、広橋保子(広橋兼秀の娘、久秀の後妻)の菩提を弔うため、南宗寺の裏に勝善院を建立している。
  • 元亀4年(1573年)6月には足利義昭により五山に次ぐ禅宗十刹に列せられている。
  • 天正2年(1574年)3月に松永久秀の兵火を受けて三好神廟は焼け、三好之長を祀っていた三好神廟から8寸の黄金像が略奪されいる。さらに慶長20年(1615年)には大坂夏の陣で堺市街とともに消失してしまう。
  • 元和5年(1619年)、住職であった沢庵宗彭によって現在の場所に再興された。

 境内

坐雲亭
二代将軍秀忠、三代将軍家光が登楼したと伝え、家康の墓所があることの証左ともされている。

山内最古の建物。下層は茶席。元和九年(一六二三)七月徳川秀忠、同八月家光の両将軍の御成の旨を記した板額がかかっている。この両将軍の御成や東照宮が祀られていうことなどによって、家康が後藤又兵衛の槍に刺され南宗寺開山堂下に埋葬されていたという伝説が残った。墓は今も開山堂下に安置されている。
(南宗寺)

兩上様堺御役所御成覺書
 
       覺
一 台徳院様  大猷院様
 御上洛之節大坂御城ヨリ堺被爲
 成候其節堺御奉行者喜多見若狭守様而御座候事
(略)
一 御役屋敷御入御書院而御膳被
 召上其上而禅宗南宗寺被爲 成候事
一 南宗寺
 御成之道筋者絹屋町通りをすぐに南宗寺 御成南宗寺より芦原町之濱被爲 成紺屋町魚問屋唯今久吉左衛門居町ノ南横町より東被爲上大道筋をすぐに大坂御歸城被遊候事
 但御持道具虎之皮之なげさや御持セ被遊候事

 墓所・供養塔

  • 戦国武将や堺の町人が大檀越であった関係で、三好一族、武野紹鴎千利休、津田宗及などの墓所または供養塔がある。
三好一族
三好一族の墓所
武野紹鴎
武野紹鴎の供養塔
津田宗及一門
津田宗及一門の供養塔 
千利休一門
千利休一門の供養塔。千利休の遺髪を納めた墓があり、隣には妻の千宗恩、千家一門、宗家代々の墓があり、毎年2月末の利休忌に法要が営まれる。 
徳川家康
家康の墓標がある。現在の墓標は水戸徳川家家老末裔の三木啓次郎が昭和42年(1967年)に再建したもの。碑石の銘は「東照宮 徳川家康墓」
曽呂利新左衛門
豊臣秀吉の御伽衆であった曽呂利新左衛門の墓。
牡丹花肖柏
室町中期の連歌師、歌人であった肖柏の墓。准大臣中院通淳の子。早くに出家して正宗龍統に禅を学び、また和歌を飛鳥井宗雅、連歌を宗祇に学んだ。宗祇から伝授された「古今和歌集」、「源氏物語」の秘伝(古今伝授)を、池田領主池田一門や、晩年移住した堺の人たちに伝え、堺では堺伝授の祖となった。

 関連項目


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