別役成義


 別役成義(べっちゃくなりよし)

日本の陸軍軍人(陸軍少将)
土佐藩士
正四位勲二等
号 能山(能茶山人)

 生涯

  • 天保15年(1844年)11月10日、土佐国土佐郡鴨部村能茶山(現在の高知市)にて別役八十平成照の子として生まれる。
    • 号の「能山」は故郷の能茶山から取っている。
      別役(べっちゃく・べつやく)姓は高知県香南市に多い名字。香美郡別役(高知県香南市香我美町別役)にはかつて別役城があり、同市では現在も別役姓が多い。
  • 「剣話録」別役成義君小傳より。※句読点を補った

    君姓は橘、氏は別役、諱は成義龍馬(柳馬)と称し、能山と號す。山内侯の世臣なり。父諱は八十平某、母は別役氏。弘化元年甲辰十一月十日土佐国土佐郡旭村に生る。出でゝ陸軍少将工兵監及び宮内省御用掛等に歴任し、正四位勲二等に叙す。明治三十八年乙巳三月二十七日病で卒す。享年六十二。旭村の先墓に葬る。著するところ押形集若干巻あり。夫人伊木氏二女を生む。男子なし、矢野初太郎某の第三子友顕君を養て嗣子となす。
    (剣話録 別役成義君小傳)

    なお弘化への改元は天保15年12月2日なので天保十五年が正しい。また諱は龍馬ではなく柳馬とされる。

  • 戊辰戦争では迅衝隊に所属し従軍する。
    迅衝隊は土佐藩士のうち、下士や郷士を主とした軽格により編成された部隊で、土佐藩の主力となった。谷干城や板垣退助(乾正形)などが所属した。
  • 明治4年(1871年)に大尉。
  • 明治5年(1872年)、藩兵となって上京し、高知藩歩騎砲工四科兵の工兵を創意訓練する。
  • 西南戦争では熊本城に籠城。教導団工兵部長(少佐)で、熊本鎮台幕僚参謀を兼ね、谷干城の片腕であったという。
    • この頃、「乃木希典日記」にもよく登場する。

        (明治十年)五月
      二十五日 金曜日 本日晴天
       拂曉對普樓ヲ出テ、長崎岬ノ波止場ニ至リ舟ニ駕ス。徳三郎夫婦(中村徳三郎)樓下ニ別レ、正記一人此辻壽野送リ來ル。御前七時高橋(熊本飽託郡三和町字高橋)濱屋眞三ノ家ニ達ス、食後傳吉ヲ先發セシメ、自ラ此ノ守衛本營櫻井大尉ノ寓ニ至リ、教導團生徒ノ嚮導ヲ乞ヒ、熊本ニ入ル。直ニ司令長官(谷干城)並ニ別役ニ逢フ。午後大山(大山巌)少将來訪。又井上軍醫(井上元章)來ル。日夕谷少将(谷干城)別役同行出城。山根(山根信成)・津下(津下弘)兩少佐來訪、閑話夜ニ入ル。

      当時乃木希典は、陸軍歩兵中佐で熊本鎮台幕僚参謀。4月22日付けで中佐に進級している。「對普樓」は熊本縣河内温泉にあったという(現、熊本市西区河内町船津)。同年2月の熊本城へ進攻した乃木は、左足を負傷しまた銃創を受けたため河内温泉で療養していたとされる。船津村の中村徳三郎宅に寄宿していた。タレントのスザンヌ氏が購入したとして話題になった龍栄荘もこの河内温泉にある。

  • 明治12年(1879年)4月、工兵第5方面提理となり、明治16年(1883年)2月、工兵第4方面提理に異動。明治17年(1884年)10月、工兵大佐に昇進。明治19年(1886年)3月、工兵会議議長心得に就任。明治20年(1887年)6月、工兵監となり、明治23年(1890年)8月、陸軍少将へ進級と同時に予備役編入となった。

    明治二十三年八月二十五日 任陸軍少将 陸軍工兵大佐従五位勲三等 別役成義
    豫備被仰付(八月二十五日内閣) 陸軍少将 別役成義

    明治二十三年八月二十七日叙従四位  従五位勲三等 別役成義

    陸軍少将従四位勲二等 別役成義

  • 予備役になった頃、宮内省の御剣係となっている。
  • 日清戦争では明治27年(1894年)8月、留守歩兵第5旅団長兼留守第3師団長事務取扱(名古屋)に就任し、明治28年(1895年)6月に召集解除。
  • 明治32年(1899年)に後備役編入されるが、翌年の北清事変(義和団事件)時には留守第5師団長(広島)で、留守歩兵第九旅団長を兼ねている(同年6月末~10月半ば)。
  • 明治36年(1903年)頃まで乃木との親交が続いている。

      一月
    十九日 雨
    昨夜奇夢アリ、勝典(長男。日露戦争で死)ニ話ス。石黑氏ゟ有書、返歌ナリ。別役氏ニ狂歌ヲ送リ答。
     
      眞淸水に住こそよけれ我も愛ず
        鯉鮎鱒は見るもうるはし
     
      泥水に住めど殺して喰はうまし
        鰌鰻に鯰スツポン

      六月
    二日 曇
    朝曾根靜夫氏死去ノ報アリ。乗車弔訪、燈明料千匹、香典貳百匹。歸路別役氏ヲ訪、卍正次ノ事。カッパ坂ニ兒玉(児玉源太郎)ニ遭フ。歸リ早食。靑年界記者斎藤某、靑年界一册持参、面會。直ニ出立、石林ニ向フ。甘藷苗六千貳百持參。汽(車)貳圓十五錢、午食三十五錢、旅行便覧十錢、煙草八錢。二郎迎ニ出ル。

    「曽根静夫」は大蔵官僚、台湾総督府民政局長、官選山形知事、北海道拓殖銀行初代頭取など歴任。「卍正次」は明治時代に活躍した刀工固山宗次門の田中青竜斎正久の次男。「石林」は那須塩原に建てた別業(乃木希典那須野旧宅)のこと。乃木は度々訪れている。
     なお別役成義死去の頃は、ちょうど日露戦争の奉天会戦の頃で乃木の日記は明治38年1月~翌明治39年8月までの間、途切れている。

  • 明治38年(1905年)3月27日、東京牛込鷹匠町の自宅において死去。享年62。死後、その功績を以てして正四位に叙せられた。
  • 男子がいなかったため、矢野初太郎の三男友顕を養子に迎え跡継ぎとした。

 刀剣

  • 同郷の今村長賀と並び、刀剣研究の大家となる。
  • 軍籍を終えた後、宮内省御用掛(刀剣担当)となる。
  • 明治31年(1898年)~明治36年(1903年)まで、「剣話会」の要請により、今村長賀とともに毎月刀剣の講話を行っている。
    • 宮崎道三郎、一木喜徳郎、小此木忠七郎らが剣話会を開いた。死後、講演内容がまとめられ、「剣講録」として刊行された。
    • 明治33年(1900年)に刀剣会(後の中央刀剣会)が設立される際には、中心的な役割を果たしている。

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