初花茶壺


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 初花茶壺

茶壺
銘 初花
御家名物
越葵文庫所蔵(福井市立郷土歴史博物館保管)

  • 著名な唐物茶入「初花肩衝」とは別の茶壺。松平忠直が割ったという逸話が有名で、今でも大きな割れ傷が確認できる。
  • 漢作唐物茶入「初花肩衝」に対して、こちらの初花茶壺は瀬戸焼で、かなり大きな壺である。
    元々(唐物)茶壺は、北宋期(首都は開封)に主に広東省を中心とする中国南部で焼成された商品充填用の日常雑器だったことが知られている。中国から喫茶の習慣を取り入れ広まりつつあった15世紀には、我が国ではこの壺を葉茶壺の保管・運搬用に用い始めたことが知られており、この運搬用の道具に美を見出し足利期に喫茶に重用され遂には名物が誕生する。一説に、最初の茶器名物は茶壺であったとも言い、その後名物狩りで茶壺を集めた信長を経て、秀吉の時代に最も珍重されるようになる。
     しかし我が国で珍重されている茶壺が、ルソン島付近で多量に存在することがわかると”るすん壺(呂宋壺)”として吟味されないまま大量に輸送されて質の低下が顕著となり、秀吉の死去とともに茶器としての隆盛は終わったとされる。しかしその後も茶器としての格は保たれ続けたといい、将軍の茶壺道中にも用いられた。

    明治以降、抹茶器(いわゆる肩衝茶入)も、葉茶壺として用いられた茶壺も等しく「茶入」と呼ぶため、注意が必要とされる。そもそも両者はサイズが大きく異なり、茶壺は高さ、径ともに凡そ1尺程度のものをいうのに対して、肩衝は大抵のものが両手で包める程のサイズとなっている。
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 法量

  • 高さ34.7cm、口径11.2cm、胴周95.3cm、底径13.3cm

 由来

  • 松平念誓が発見し、「初花」と名付けたという。

 来歴

 松平念誓

  • 三河国長沢の代官松平親宅(松平念誓)が発見する。
    松平親宅(まつだいら ちかいえ)は長沢松平家の一族。家康の長男である松平信康に仕えていたが、何度も諫言するも聞き入れられず、遂には役目を返上して蟄居し、商人となっていた。この時に出家して念誓と号したともされる。天正7年(1579年)信康切腹前後に家康に召し出されており、蟄居や主家退転はこの時に許されたとされる。初花茶壺の献上をした後も、武士に戻ることはなく、家康より酒役・蔵役等の所役免除を受けている。その死後、次男が家光に仕え、旗本として継続した。

 家康

  • のち天正12年(1584年)に葉茶を詰めて家康に献上し、この功により諸役免除を許されている。

    此度初花壺令所持差上之條、甚以神妙也、其付而知行可遣之旨候之處、及斟酌、望之子細言上之間、任其儀、藏役酒役其外一切諸役免許等之事、
     右子々孫々永領掌不可有相違之狀如件、
        天正十二年
           三月一日    家康御書判
                        念誓

    ※一般に初花肩衝と初花茶壺は混同されがちである。これは本能寺の変後に同じ松平親宅(松平念誓)が入手し、両方とも家康に献上したためである。

    初花肩衝については、大文字屋から信長、信忠と渡り、松平親宅(松平念誓)が発見し家康に献上した。
     天正11年(1583年)5月、家康は賤ヶ岳の合戦の戦勝祝いとしてこの初花肩衝を石川数正を使いとして秀吉に贈っている。形見分けで宇喜多秀家に渡るが、再び家康に戻り、松平忠直へと渡った。この時期、忠直は初花肩衝および初花茶壺の療法を所持していたことになる。しかし初花肩衝については松平光長へと渡り、その後元禄11年(1698年)に津山藩が立藩された際に松平宣富から将軍綱吉に献上された。現在は徳川記念財団の所蔵。

 松平忠直

  • のち、松平忠直に伝わった。伝わった時期は不明。

    朝臣(越前少将忠直朝臣)御本陣に参謁せられしかば、朝臣の手を取らせ給ひ、今日の一番功名ありてこそ、げに我が孫なれとて、いたく御賞誉あり、(略)当座の御引出物として、初花の御茶入をたまはり云々(徳川実紀附録)

    ※どうも大坂の陣後に初花肩衝を贈ったともされ、あるいは当茶壺を贈ったともされている。しかし両方贈ったとは考えづらいため、肩衝だろうと思われる。となると初花茶壺の方は別の機会に与えられたと思われるが時期不明。

  • しかし大坂の陣での武功に満足していなかった(あるいは茶壺では家臣への報奨に代えられない)忠直は、この茶壺をたたき割ったという。

     忠直卿御帰陣ありて、両本多を御前に召て宣いけるは、今度大坂表の合戦偏に御身等一命をなげうつて、手痛く相働たる故で悉く勝利を得たり。殊に当年より一番に城を乗取事、万々比類なき戦功知る御褒美を有るべき所、曽て人並み勝れたる儀もなく知る、道妙寺表の合戦にあわざる節は、吾手勢は昼寝を致などと恥辱の詞をあたへらる。我彼合戦を知は何とて見ては有るべき。両度の御陣、共に吾は一命を捧て死戦汝等も知る所なり。斯く云うとて吾れ少しも恩賞を望むには非ず、人並み勝れたる武功を以て人並み勝れたる御感を蒙らざるを恨のみ。
     又天下一の名物なりとて初花とやらん云う茶器を給う、是又何の用にかせん。汝等にも見すべしとて近親(近臣か)に命じて取寄られ、箱より出して投やり給いければ茶入は二つになりにけり。両本多も御気色に恐れ何と申すべき詞もなく御前を退けり。

    これを見ると、忠直が怒ったのは前哨戦となった道明寺表での戦い(大和口での大坂方による迎撃戦)を知らずに(本多らが)本戦での配置を聞きに行った際に、「越前勢は昼寝でもしてたのか(すでに先陣は加賀に命じたり)」と罵られたことに対して怒りが収まらなかったものと思われるが、これもあくまで伝記である。

  • 忠直が怒った理由は不明だが割ったのは事実で、現在でもこの割れ傷が確認される。
    ちなみに家康は、大坂夏の陣が勝利すると5月9日に岡山陣を発って伏見城に戻っている。翌日には浅野長晟、蜂須賀至鎮、生駒一正、池田忠雄が拝謁(同家臣らも褒美は記載なく褒詞のみ)、次いで忠直が登場し、「越前少将忠直朝臣、今度の軍功莫大なりとて。先初花の茶壺を賜ひ。又 御所御手づから貞宗二筋樋貞宗)の御刀をたまふ。其家臣等みな褒詞を加へられ。中にも本多丹下成重。荻田主馬には茶壺をたまひ。主馬は原禄一萬石の外に。與力の禄として一萬石加ふべしと命ぜらる。(駿府記、武徳編年集成)」とする。
     つまり記録するほどの物を貰えなかった前四者に対して、忠直は名物茶壺と名物貞宗という明確な褒美をもらっており、褒美云々で怒るのは少々違和感を感じる。元々大坂夏の陣での豊臣家は(当時天下第一と言われた大坂城と膨大な金を蓄えていたとは言え)約65万石の一大名でしかなく、褒美がいうほど発生しないのは自明である。その後忠直は、6月19日に前田利光(利常)、伊達政宗らと従三位参議に叙されている。

 福井藩代々

  • その後も越前松平家に伝わった。松平光通の遺物として分与されている。

       公遺物
    義広腰物代二百枚、瑠璃石(一作琦楚石)、掛物代二百枚、茶壺初花(謙曰、図書寮本に此間一行を闕けり、或は右将軍家へ、の字を脱せるか) 青磁香爐朧、世尊寺行尹軸物 右将軍御台所へ

    この時恐らく将軍家に献上されたものと思われるが、その後福井藩に伝来している。いつ頃か再び拝領したか、あるいはこれが将軍ではなく別人(松平昌親など)に渡った可能性もある。その場合、この送り先の並びには相当違和感がある。

  • 松平春嶽も、同じ「初花茶壺」として当家にもあると書いている。

    西岸公卽忠直公、大坂戦陣の時、從 東照宮賜ハりし初花茶壺を、公自ら破毀し給ふ。此茶壺は當家所有也。津山家にもあるよしなれど、當家所有し方、眞物なる事疑ひなきもの之。

  • 現在は越葵文庫所蔵(福井市立郷土歴史博物館保管)。

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