分部志津


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 分部志津(わけべしづ)


無銘 志津(名物 分部志津)
2尺3寸3分(70.6cm)、反り1.8cm
附 打刀拵二口
重要文化財
国(文化庁)所蔵

  • 志津三郎兼氏は、大和から美濃国志津に移住した刀工
  • 享保名物帳所載

    分部志津 長二尺三寸三分 千五百貫代付 紀伊殿
    由緒不知、分部殿御家より出る由なり慶長三究

  • 表裏に樋をかき透す。差表の中程から二寸ほど上に刃がらみ。裏には刃区より四寸上に膨れ。中心大磨上、目釘孔1個。
  • 附指定を受けている打刀拵二口は、それぞれ家康所用、頼宣所用のものである。
Table of Contents

 由来

  • 分部左京亮光嘉(伊勢上野藩初代藩主)が所持したことから「分部志津」とよばれた。

 来歴

 分部氏

  • 分部光嘉は、豊臣秀吉から一万石を受けて伊勢上野城主となる。
  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では徳川家康に味方し、会津征伐に従軍している。
  • しかし伊勢上野城および安濃津城が西軍に囲まれ、急遽帰国。総勢3万の西軍に対して城方はわずか1700人と兵力差が大きかったが奮戦し、木食応其が仲介となって西軍と和平し安濃津城は開城した。戦後に東軍加担したことを買われ、所領安堵となる。
  • そのとき「志津」は分部氏から家康に献上される。

 家康

  • 家康は、これに拵えを付け白鮫の柄をつけ牛の図の赤胴目貫をつけ革巻きとし、鍔は車透かしの鉄鍔、鞘は蝋色塗りで、古後藤の赤胴、七子地、牛の図柄の小柄と笄をつける。

    中之御腰物 志津 分部光嘉カ
    駿府御分物帳

 紀伊徳川家

  • 後に紀州家初代頼宣に贈られ、拵えを新調している。
    家康薨去時の形見分けでは空欄(将軍家)となっている。その後のいずれかのタイミングで頼宣に贈られたと思われる。
  • 家康と頼宣、それぞれの打刀拵が附属し、附指定を受けている。
  • 慶安3年(1650年)、紀州家から本阿弥に鑑定に出され、千五百貫の折紙を出している。
  • 以後同家に伝来。
  • 昭和17年(1942年)6月26日旧国宝指定(新法施行により重要文化財指定)。

    刀 無銘傳志津 附打刀拵二口柄一點
    東京府東京市目黑區上目黑七丁目 侯爵徳川頼貞

 戦後

  • 戦後同家を出る。
  • 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では渡辺国武氏所持。
  • その後、「刀剣博物館保管」となっていたが、令和元年に国により7千万円で買い上げされた。
  • 令和元年文化庁購入文化財一覧 | 文化庁

    工芸品 重要文化財 昭和17年6月26日 工芸品
    第1173号 刀 無銘伝志津 附打刀拵二口柄一点 - 1口
    70,000,000

    享保名物帳』記載で,分部光嘉所持により「分部志津」と称される。徳川家康から紀州初代藩主頼宣に伝えられ,家康,頼宣所用とされる
    それぞれの打刀拵えが附属する。




 分部光嘉(わけべ みつよし)

  • 「分部志津」の号の由来となった分部左京亮光嘉は、北伊勢に勢力を張った長野氏(長野工藤氏)の支族、細野藤光の次男として生まれる。
    長野工藤氏は、もとは曾我兄弟に殺された工藤祐経の三男・祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃郡・奄芸郡の2郡を給わって長野氏を称したのに始まる。南北朝期に北畠氏が進出すると抗争が始まるが、戦国時代に北畠氏が伸張し晴具の時代に長野氏当主が続けざまに亡くなったことから実権を奪われ、北畠具教の次男・具藤(長野御所)を養嗣子として迎え北畠氏の傘下に組み込まれた。のち三瀬の変で北畠一族は滅亡に追い込まれるが、織田信包により率いられた長野工藤氏の一党(分部氏)は、豊臣氏・徳川氏へと主を変えることで江戸時代まで存続することになる。
  • 同じ長野一族である分部氏の当主光高に実子が無かったため、その養嗣子として後を継ぐ。
    長野稙藤─┬長野藤定─┬長野藤勝
         │     ┝長野具藤(北畠具教次男)
         │     ┗織田信包
         ├雲林院祐基
         └細野藤光─┬細野藤敦
               │
          分部光高━┷分部光嘉─┬分部光勝━━分部光信
                     ├渡辺久勝室
                     └長野正勝室
                        ├───分部光信【近江大溝藩主】
                長野広澄──長野正勝    ├───分部嘉治
                            酒井重忠娘   ├───分部嘉高
                      池田長幸─┬池田長常──池田長常娘
                           └池田長信──分部信政─┬分部信秋
                                       └分部光忠
    
    池田長幸は、鳥取藩初代藩主・池田長吉(池田輝政の弟)の長男。のち備中松山藩に転封された。子の池田長常が跡を継ぐが、無嗣断絶により改易された。
     酒井重忠は、徳川譜代の酒井正親の次男。雅楽頭系酒井家の嫡流で、武蔵川越藩主、のち上野厩橋藩主。子の酒井忠世は家光に重用され老中、大老を務めた。なお重忠の弟の酒井忠利は分家を立て、武蔵川越藩主からのち若狭小浜藩主となった。その子が(小浜藩主の(、、、、、)酒井忠勝で、こちらも老中から大老へと進んだ。詳細は「酒井忠勝」の項参照。

 織田政権下

  • 永禄12年(1569年)、織田信長の伊勢伸長に際して主君長野具藤を追放し、織田信包(信長弟、長野上野介信良)を長野氏の当主に迎え入れる。家老格で忠節を尽くした分部光嘉に対して同年3月付の上野介信良から送られた安堵状が残る。
    同様に、伊勢国司の北畠家には信長の次男茶筅丸(織田信雄)に北畠具房の妹の雪姫を婚姻させて、養嗣子とした。元亀3年(1572年)に茶筅丸は元服し北畠具豊(信意)と改名する。
    織田信秀──┬織田信長──┬織田信忠───織田秀信(三法師)
          │      ├北畠具豊(茶筅丸、織田信雄)
          │      └織田信孝
          │
          ├長野信包──┬織田信重───織田直政
          │      └織田信則───織田信勝【柏原藩】
          │
          ├織田信治───柘植正俊【柘植氏】
          │
          └織田長益──┬織田長孝【美濃野村藩】
           (有楽斎) ├織田頼長
                 ├織田長政【大和国戒重藩→芝村藩】
                 └織田尚長【大和柳本藩】
    
  • 元亀元年(1570年)、織田信包の指示により安濃津城の仮城として伊勢上野城を築城。完成した安濃津城に信包が移った後、上野城は安濃津城の出城となったが、その後も分部光嘉は伊勢上野城主として信包に仕えた
  • 旧北畠家臣・長野家臣の中には織田信長による伊勢諸家の乗っ取りに承服していないものがおり、元亀4年(1572年)3月の甲斐武田家の西上に合わせて誼を通じていた。やがてこの動きは信長の知るところとなり、天正4年(1576年)11月には北畠一族の抹殺を画策する。旧北畠当主が隠遁していた三瀬御所および田丸城において、北畠一族および家臣らが誅殺された(三瀬の変)。
    • 翌天正5年(1577年)10月19日に、信長から分部光嘉、ほか2名に対する黒印状が残る。

 豊臣政権下

  • 天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長と信忠が殺害されると、織田信包は豊臣秀吉に従う。分部光嘉も信包家臣として仕えている。
  • しかし天正18年(1590年)の小田原征伐の際、信包が北条氏政・氏直父子の助命を嘆願したことから、秀吉の怒りを買ってしまう。文禄3年(1594年)、織田信包は豊臣秀吉によって改易され、残っていた長野氏の一族や家臣団は離散する。
  • しかし分部光嘉は豊臣家の直参となり、伊勢上野城1万石を領す。慶長2年(1597年)、従五位下・左京亮に叙任され、豊臣性を賜る。
    • 文禄4年(1595年)8月4日、秀次事件の後に3000石。
    • 慶長2年(1597年)5月晦日に1280石加増。
    • 慶長3年(1598年)7月26日には5700石余りを加増し、都合1万石とする知行目録が残る。

 関ヶ原~近江大溝藩主

  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康の会津征伐に従軍したが、西軍挙兵の報を受け急ぎ帰国し安濃津城を守備する。
  • 安濃津城の戦いでは総勢3万の西軍に対して安濃津城に籠城して守りぬき、戦後その功により2万石に加増された。
    • 慶長6年(1601年)3月5日、1万石加増し2万石とする知行宛行状が残る。
  • 翌慶長6年(1601年)11月29日、安濃津城の戦いのときに受けた傷がもとで死去した。享年50。

 系譜

  • 分部光嘉の長男光勝は早世していたため、娘婿・長野正勝の子で外孫にあたる光信が養嗣子として跡を継いだ。
    • 慶長9年(1604年)6月22日、従五位下・左京亮
  • 分部氏は元和5年(1619年)8月に近江大溝藩主となる。養子を度々迎え江戸時代中頃には血縁的に断絶するが、近江大溝藩は幕末まで続いた。

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