典厩割


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 典厩割国宗(てんきゅうわりくにむね)


無銘 伝国宗
名物 典厩割
二尺三寸一分
京都井伊美術館所蔵(京都市東山区 旧中村甲刀修史館)

Table of Contents

 由来

  • 永禄4年の第4次川中島の戦い(八幡原の戦い)において、謙信自ら壮の者を左右に従えて武田陣中へ切り込み、左馬助(武田信繁)を切って落としたという。
    「典厩(てんきゅう)」とは、武田信繁の官職「左馬助」の唐名

    太刀にて両将の太刀打ちにて候、然る所、弟の武田左馬助信繁来りて押へて、信玄御幣川乗切り、味方へ乗込み申され候、景虎は左馬助信繁を手に懸け、討取り申候、(略)世上にて武田左馬助信繁を村上義清討取ると之あり、大きに虚説なり、謙信自身に左馬助を犀川の岸際にて典厩を押詰め、川へ切落されしを、越後方梅津宗三といふ者、典厩の首を取るなり、むさしといふ途なり、此時謙信の太刀備前長光二尺五寸、赤胴作りに候、只今当家に相伝有之候、異名を赤小豆粥と號し候、是れ天文廿三年甲寅八月十八日なり、謙信太刀に切込有之候
    (上杉将士書上)

    謙信自身に左馬助を討取り、犀川の岸涯にて典厩を川へ切落されしを越後方梅津宗三といふ兵、典厩の首を取れるなり、此時謙信の太刀備前長光二尺五寸赤銅作、今に当家に相伝へ有之、異名を赤小豆粥と號すと云々、右天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮合戦は第一度なり
    (北越耆談)

    いずれも備前長光二尺五寸、異名「赤小豆粥」としている。前者の「上杉将士書上」は寛文9年(1669年)成立、また後者の「北越耆談」は米沢藩士丸田左門友輔が寛文元年(1661年)に古老たちから聞いた話をまとめたものとするが、「今に当家に相伝へ有之」という記載は、佐竹義重に贈ったという来歴と矛盾してしまう。義重は関ヶ原の後秋田に移封されており、慶長17年(1612年)没。

 来歴

 謙信

  • もとは上杉謙信佩用。当時は三尺三寸あったという。

 佐竹義重

  • のち永禄4年(1561年)12月、謙信が北条氏康と対峙した時に、水戸の佐竹義昭が十五歳の義重と共に三千人を率いて上杉方の味方に参じた。
  • 謙信大いに喜び、自ら近習を率いて佐竹陣に赴くと、厚く来陣の礼を謝し帯びていたこの國宗を贈ったという。

    (永禄)四年十二月義昭嫡男義重を伴ふて輝虎に小田原に會す(義重時に年十五)輝虎深く義昭父子出馬の勞を謝し慮外なから此輝虎にあやかり候へとて手に備前三郎國宗の一刀を把て之を義重に贈り以て其前程を祝せしとぞ

    また一説に、この逸話は永禄7年(1564年)のことだとされる。その場合は、小田氏治が北条氏に応じて謙信に叛旗を翻したのに対して、謙信と佐竹義昭の連合軍で小田城を囲んだ際(山王堂の戦い)の逸話ではないかと思われる。なお佐竹義昭は、永禄5年(1562年)に義重に家督を譲って隠居しており、永禄8年(1565年)11月3日に急死している。

 佐竹義宣

  • 佐竹義重から義宣へと伝わり、義宣は二尺三寸一分と磨上げて黄金造りにした上で、佐竹家の重宝とした。
  • 現在は京都の京都井伊美術館(旧 中村甲刀修史館)で所蔵されている。


 異説

 長光兼光二尺九寸

  • また「謙信記」では長光または兼光の二尺九寸とする。

    謙信は、先手備の中に居給ひて、下知せられて戦ひ居給ひしが、本陣大に敗軍し、信玄公は、宇佐美駿河・跡部越中・鳥山因幡に揉立てられて、御幣川の方へ、信玄引き給ふを見て、謙信大聲に、信玄は、宇佐美に打負け川を引く、追詰めて首を取り候へ、共に川へ乗入よ者共とて、長光兼光とも申し候長さ二尺九寸の刀を下げ、諸鎧にて追ひ給ふ、謙信と馬を竝べ、信玄公を追ふ者は、上條彌五郎・長尾七郎・元井日向・小田切治部・北條丹波・山本寺宮千代・青川十郎・安田掃部、是等信玄公を追うて、御幣川へ乗入て、甲州勢を、川中にて切捨つる、信玄公は、近習三十騎程の中に引包んで、川を越し給ふ所に、謙信は馬を乗付けて、備前長光の刀を持つて、信玄を川中にて切付け給ふ、信玄公は軍配にて請け給ふ、然れども二箇所手を負う、信玄の近習餘り嶮しき事故、槍にて謙信を叩きし所に、馬の三寸に當る、是にて謙信の馬、二間計りも飛び候、其間に、信玄公も隔り、謙信物別れ致され候、甲州衆も謙信と□□□、十八九人程にて附廻し切つて懸る、謙信是を事ともせず、切掃ひゝ、難なく引退き給ふ、甲州勢引後れ候者共を、謙信、川中にて十二人まで切捨て、四方に眼を配り、川中に馬を控え居給ふ処、武田信玄の弟武田左馬助信繁、後陣に居候が信玄公手を負い給ふと聞きて、六七騎程にて河端へ馳せ来り、謙信を見つけて言葉を懸け大音揚げて、川中に居給ふは大将謙信と見申候、某は武田左馬助信繁なり、我等と勝負せられ候へと申さる、謙信は是を聞き給ひ、是は謙信の郎党甘糟近江守にて候、貴殿の敵には不足なるべし、勝負は御無用候へとて、謙信馬を川端へ乗上げ給ふ所へ、左馬助馬を乗付けて謙信を一打と拝打に打つ太刀を、謙信請けながら、馬をもじらせ片手なぐりに左馬助が高股を切落し給ふ、左馬助馬に耐らず落ち給ふ、村上義清、謙信の敵と太刀を翳して馳せ来りし所に、左馬助の馬より落ち給ふを見て、村上、馬上より飛び下り、左馬助信繁の首を取る
    (謙信記)


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