佐藤行光
※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
佐藤行光(さとうゆきみつ)
短刀
無銘
八寸四分
重要美術品
- 享保名物帳所載
佐藤行光 無銘長八寸四分 代金百三十枚 松平左京大夫殿
昔佐藤勘右衛門殿所持
- 平造り、三ツ棟、無反り。重ねやや厚い。目釘孔2個。
由来
- 佐藤勘右衛門堅忠所持にちなむ。
美濃国加茂郡の佐藤氏。斎藤道三亡き後は加治田城主佐藤忠能と共に行動し、のち養子となる。斎藤利治、斎藤利堯に仕え、森忠政の推挙により秀吉に仕える。主に普請奉行として活躍し、のち家康にも仕えた。文禄3年伏見城普請奉行、慶長12年駿府城普請奉行などを務めた。
来歴
佐藤堅忠
- 佐藤堅忠は秀吉家康に仕え、慶長17年(1612年)没。
家康
紀州家
- 元和7年(1612年)紀伊藩主徳川頼宣が帰国挨拶の際に拝領。※元和元年とも。
- 寛永20年(1643年)11月には本阿弥光温により金百三十枚に改められる。
松平頼純→伊予西条藩
- 承応3年(1654年)12月25日、頼宣の次男松平頼純が左少将左京大夫に叙任されたのを祝してこれを与えている。
- 寛文10年(1670年)、松平頼純は伊予西条藩主(紀州連枝)となり、以後同家に伝来した。
昭和以後
- 昭和9年(1934年)、業者の斉藤栄寛が同家から購入し、同年に水町袈裟六家(枢密顧問官)の入札が行われた際に差し入れ、業者の岸本勘之助が1万圓で落札。
無名長さ八寸四分五厘。紀州徳川家伝来、本阿弥光温寛永二十年11月百三十枚折紙。附吉岡因幡介金哺〆飾鼠三所物脇指拵
水町袈裟六(みずまち けさろく)
水町家は佐賀藩の重臣の家系。帝国大学法科大学(現東京大学法学部)を卒業後、1891年に大蔵省(現財務省)に入省。理財局長、大蔵次官、英仏駐在財務官を歴任。明治44年(1911年)の退官後、日本銀行副総裁。大正2年(1913年)に横浜正金銀行頭取を兼任。会計検査院長も務め、これらの功績により昭和4年(1929年)に枢密顧問官。晩年は法政大学総長を逝去するまで務めた。昭和9年(1934年)7月10日逝去、享年70。
- 現存
Amazonファミリー無料体験