佐竹本三十六歌仙絵
佐竹本三十六歌仙絵巻(さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき)
絵巻物
佐竹本
佐竹本三十六歌仙切
Table of Contents |
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概要
歌仙絵
- 藤原公任による私撰集「三十六人撰」に選ばれた歌人36名は、「三十六歌仙」と称されるようになる。
- 「三十六歌仙」を描いたものは「歌仙絵」と呼ばれるが、この近世大名佐竹家に伝来した三十六歌仙絵(佐竹本)は、その中でも特に優れたものとして古来名高く、「佐竹本三十六歌仙絵巻」、切断後は「佐竹本三十六歌仙切」と称される。
佐竹本
- 本絵巻は三十六歌仙の肖像画にその代表歌と略歴を添え、巻物形式としたものである。上巻・下巻ともに18名の歌人を収録する。
- 上巻
- (不明)、人麿、躬恒、家持、業平、素性、猿丸、兼輔、敦忠、公忠、斎宮、宗于、敏行、清正、興風、是則、小大君、能宣、兼盛
- 下巻
- (住吉明神)、貫之、伊勢、赤人、遍照、友則、小町、朝忠、高光、忠岑、頼基、重之、信明、順、元輔、元真、仲文、忠見、中務
- 下巻巻頭には和歌の神とされる住吉明神(住吉大社)の景観が描かれた図があり、上巻巻頭にも、現在は失われているが、玉津姫明神または下鴨神社の景観図があったものと推定されている。
玉津島明神とは和歌山県和歌浦にある玉津島神社(玉津嶋神社)のこと(「玉津島 此神社は紀伊國海部郡弱󠄁󠄁浦に在り、祭る神は衣通姫也」和歌三神考)。国史見在社。旧社格は村社。祭神は衣通姫。古くから和歌の聖地とされる。古来和歌の神として住吉明神、北野天満宮と並ぶ和歌三神の1柱として尊崇を受けた。近世以降北野社の代わりに人麻呂を入れるようになったという。
和歌三神(わかさんじん)とは一般に住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂をいう。諸説あり、「住吉明神・玉津島明神・天満天神」、あるいは「柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫」などとされることもある。どの説でも玉津島明神=衣通姫が入っていることがわかる。
製作
- もとは巻子装で上下2巻として製作された。
- 製作年代は12世紀で、絵の筆者については藤原信実、文字は後京極摂政と呼ばれた九条良経と伝承される。
- ただし、紀貫之については文字が、また凡河内躬恒については絵及び文字がそれぞれ狩野探幽により補われたものである。このため、截断時の価格が他より低くなっている。
- 画面には歌人の姿のみを描き、背景や調度品等は一切描かないのが原則であるが、中でも身分の高い斎宮女御徽子は繧繝縁(うんげんべり)の上畳(あげだたみ)に座し、背後に屏風、手前に几帳を置いて格の高さを表している。
- 「佐竹本三十六歌仙絵巻」は、「上畳本三十六歌仙絵巻」と並んで三十六歌仙図のうちでも最古の遺品であり、鎌倉時代の大和絵系肖像画を代表する作品と評されている。
由来
- 「佐竹本」と呼ばれる由来は、旧出羽久保田藩主・佐竹侯爵家に伝来したためである。
伝来
- もとは下鴨神社に伝来したものといい、その後旧出羽久保田藩主・佐竹侯爵家に伝来した。
下鴨神社
- 木村
蒹葭堂 や谷文晁が模写した頃には、まだ本三十六歌仙絵巻は下鴨神社にあったのではないかという。蒹葭堂雑録に云、(略)
其の住吉の図を載せたり。其の図、其の運筆、佐竹家の藏といささかもたがうところなし。因りて按ずるに、佐竹家の藏なるものは、もとは下鴨の神藏にありしにもやあらむ。
これが事実であれば、佐竹家に伝来したのは年代的に5代義峯(在位:1715-1749)でなく8代義敦(在位:1758-1785)の頃ということになる。なお吉宗が模写させた住吉広守は、享保19年(1734年)に江戸に招かれて御用絵師となり、安永6年(1777年)没。谷文晁は宝暦13年(1763年)生まれ、蒹葭堂は元文元年(1736年)生まれなので、かなり近い年代に下鴨から佐竹家に移動していることになる。
谷文晁
宝暦13年(1763年)9月生まれ、天保11年(1840年)12月没。祖父・父ともに田安徳川家の家臣。文晁自身も26歳で田安家に仕えた。谷文晁が模写したものは田安家に伝来し、現在は齋田記念館所蔵。
- 江戸末期の随筆「蒹葭堂雑録」では、次のように記す。
京師下鴨の神庫の所藏に三十六歌仙の繪巻物なり、書ハ後京極良經公画ハ左京太夫信実朝臣なり、尤おの/\肖像を画たれども其初住吉の一首ハ風景を画たり、其光景古風たりて今の圖とハ違ひし奇らしきここに模写す
木村蒹葭堂(きむら けんかどう)
江戸時代中期の文人・画家・本草学者・蔵書家。元文元年(1736年)11月28日生まれ、享和2年(1802年)没。本草学・文学・物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画・煎茶・篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人であった。また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの大コレクターとしても当時から有名であり、その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の元に訪れた。人々の往来を記録した「蒹葭堂日記」には、現存する20年間だけでも延べ9万人以上の来訪者が著されている。
随筆「蒹葭堂雑録」は、彼の死後に子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成が整理・抜粋した上で刊行したもの。
木村蒹葭堂研究資料(近・現代刊行物)|大阪府立図書館
佐竹家
- いつごろ佐竹家に伝来したのかは明らかにはなっていない。遅くとも18世紀には伝来していた可能性がある。秋田県では、五代義峯の時か、八代義敦の時という説を紹介している。
佐竹義峯は出羽久保田藩5代藩主。元禄3年(1690年)9月生まれ、寛延2年(1749年)8月没。
- 徳川実紀では、将軍吉宗が様々な書画にも興味を懐き、和歌にも通じたとしてその逸話の一つとして、5代藩主佐竹義峯の家に伝来していた「土佐信実筆の歌仙絵巻」を観覧し、住吉広守に模写を命じたと記述する。※これが「佐竹本三十六歌仙絵」であるか否かは不明。
住吉内記廣守は。土佐流の畫工法眼具慶廣澄が子内藏允廣保が二男なり。祖父が志をつぎ。畫事にこゝろをゆだぬるのよし聞召れ。享保十九年十二月十八日江府に召て畫工の列に加へらる。(略)
又佐竹右京大夫義峯が家に傳へし歌仙繪卷物をめして御覧ありしに。土佐信實 の筆にして。希世のものなりしかば。臨摸すべきむねを命ぜらる。内記もいとかしこき事におもひ。精力をつくし。少しも古色にたがはずうつして奉りけるに。これは古の衣服。調度をかうがへわくべきたより多ければ。汝が家に傳へ。永く粉本となすべしと仰下され。今もそが家に珍藏すといへり。
(有徳院殿御實紀附録卷十六)古畫目録云、三十六歌仙二巻、藤原信實筆、眞跡佐竹右京大夫藏、摹本在住吉内記家
住吉広守(すみよし ひろもり)
江戸時代中期の画家。宝永2年(1705年)生まれ、安永6年(1777年)10月21日に73歳で没。享保19年(1734年)12月に幕府の御用絵師となっている。号 賀慶、至全、慶至。祖父の住吉具慶は、幕府の奥絵師となり大和絵住吉派興隆の基礎を築いた。
- 明治15年(1882年)の内国絵画共進会に出品。佐竹義堯は出羽久保田藩第12代(最後)の藩主。
佐竹義堯出品
○三十六歌仙(藤原信實筆)(歌後京極良経) 二巻
好古少録云後世ノ衣服ヲ以テ當時ヲ寫ス古昔ノ制ヲ
考ルニ益ナシ六七百年來ノ衣服詳ニ考フヘシ
大正売立
- 大正6年(1917年)11月、東京両国の東京美術倶楽部で佐竹家の所蔵品の売立てが行われ、三十六歌仙絵巻は東京と関西の古美術業者9店が合同で35万3千円で落札した。
当時の1万円は21世紀初頭現在の価値で諸説あるが約1億円とされ、総額36億円ほどということになる。そのため、一社で落札しうる業者が存在せず、やむなく共同落札という形なったという。六六 信實三十六歌仙 詞書後京極良経卿 ニ巻
十一月二日特別下見、三日四日普通下見、五日入開札を両国美術倶楽部に挙行する都合と為ったが、此入札会に於て無論レコード破りを出すべき名品は信実筆三十六歌仙、後京極良経詞書の絵巻物二巻で(中略)
而して彼の信実三十六歌仙巻物は最初四十萬圓の止値を入れ置きたいと云ふ希望であったが、歌仙の一人は狩野探幽の補足であるから、信実筆は三十五人として一人一萬圓即ち三十五萬圓が至当の値頃ならんとて止値を矢張其通りにした。是れより先き益田男は三井家を説いて同倶楽部の備品と為さしめんとしたが、其承認を得る能はなかったので、札元全部総合して之を三十五萬三千圓にて落札し(略)信実筆三十六歌仙巻 金三十五萬三千圓 札元一同
山本唯三郎
- その後大正7年(1918年)頃にこの絵巻を購入したのは、山本唯三郎である。
余(高橋義雄)は益田男と共に札元連中を説得し兎に角三十五萬三千圓で引受けさせたが、其の後京都の服部七兵衛老が周旋して当時船成金の一人虎大盡山本唯三郎氏に譲渡す事と為った
大正七年一月、松昌洋行山本唯三郎氏の使者が、突然私方に佐竹侯爵家舊藏信實筆三十六歌仙二巻を持参して、今度此二巻を買収せんとする積りなれども、付屬品其他に間違ひなきや、貴下の一覧を乞ひたる上にて、いよ々々決定する積りなれば、委細御意見、此者に御申聞け下されたしとの事であつた。依つて直に之を披見すれば實物は勿論、付屬品一切、更に相違する所なければ、山本氏が之を買収するのは、國寶保存の爲め誠に結構な思立で、早速實行相成りたしと回答して置いた。(略)私は其後書簡の末尾に、左の一首を書添へて、同氏に送つた。
風雲意氣欲衝天 萬里打圍鞭着先 昨日韓山擒虎手 更収三十六歌仙
(信實歌仙斷巻式)
- 山本は松昌洋行という貿易商社を起こし、中国で材木の輸出、石炭の輸入などの事業を行い、後に海運業で財を成した人物である。朝鮮半島へ虎狩りに行ったことから「虎大尽」の異名を取り、数々の武勇談や奇行に満ちた人物であった。
山本唯三郎(1873-1927):美作鶴田藩(旧・浜田藩)の藩士・坂斉 正雪の三男で、実兄に青木要吉(日出学園創立者)がいる。幼い頃に養子に出され、山本竹次郎の養子となった。兄の支援を受けて私立閑谷黌~同志社に進むが青木がイェール大学に留学すると支援も途絶え、山本は中退した。その後札幌農学校に官費生として学び、新渡戸稲造の後援で北海道の開拓事業に従事した。北海道国有未開地処分法の制度を活かして33万平方メートルの荒れ地を4年で開墾し、大地主となって成功を収めた。のち天津の松昌洋行に転じた。材木・石炭の貿易で頭角を現し社長となった。大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発すると船舶需要の急増を見越して船舶輸送業を強化、購入あるいは傭船した20隻以上の船を欧州航路などに投入し、巨万の富を築いた。この頃に佐竹本三十六歌仙絵巻を購入している。しかし大正9年(1920年)ころの戦後恐慌で松昌洋行の経営は行き詰まり、「池上御殿」と言われた4万7000坪の自宅をはじめとする邸宅や、三十六歌仙絵巻などを手放し、吉祥寺の自宅でわびしい生活を送ったという。昭和2年(1927年)胃痙攣のために自宅で急死した(54歳没)。
絵巻分割
- しかし第一次世界大戦の終了により経済状況は悪化し、山本は1919年(大正8年)には売りに出すことを検討する。
然るに大正八年に至り船成金が大打撃を蒙り、山本氏も御多分に漏れず再び之を処分せざる可らざる場合に立至った
然るに人事齟齬多く、爾後未だ二個年ならざるに、山本氏が漸く左前と爲り、俄に歌仙巻を處分せんとしたが、一人にて之を買収する者がいないので、最初よりの世話人、服部七兵衛が依宅を受け、同業土橋嘉兵衛を語ひて、結局各歌仙を分斷の上、一枚づゝ抽籤を以て、全國の數寄者に分配すべく、評議一決したるに就ては、是非共其行司役を引受けられたしと、私と益田鈍翁、野崎幻庵の三人に依頼して來たので、今は之を如何とのする能はず、斯くなる以上は、數寄者冥利、寧ろ潔く之を引受て、歌仙の爲めに、安住の嫁入先を周旋せざる可らずとて、當代古筆道の権威たる田中親美氏を其評價委員長とし、尾州の森川勘一郎氏を其補助として、大正八年十二月二十日、品川御殿山應擧館に於て、いよ々々斷巻式を擧行する事となつた。
(信實歌仙斷巻式)
- ところが時節柄、高価な絵巻を1人で買い取れる収集家はどこにもいなかった。そこで絵巻の買い取り先を探していた服部七兵衛、土橋嘉兵衛ら古美術商は、当時茶人・美術品コレクターとして高名だった実業家益田孝(号:鈍翁)のところへ相談に行った。
明治以降急速に近代化を進め、日清・日露戦争を含む対外拡張政策により外債の発行が続き、日本の対外債務は膨張した。しかし第一次世界大戦(1914-1918)ではヨーロッパの軍事需要により日本経済は潤い、工業国への転換に成功し、大戦景気となり債権国へと転換した。しかし大戦が終結して欧州軍需が冷え込むと、それに依存していた日本経済は大正9年(1920年)以降に戦後恐慌へと陥った。大正12年(1923年)の関東大震災も重なり、昭和2年(1927年)には昭和金融恐慌が起きる。
- 大コレクターとして知られた益田もさすがにこの絵巻を一人で買い取ることはできず、彼の決断で、絵巻を歌仙一人ごとに分割して譲渡することとなった。当日、依頼を受けて鋏で截断したのは三好竹馬という経師屋であったという。
切断事件などと書かれることがあるが、絵巻自体は元々長大な一枚紙に描かれるわけではなく、大きな紙に描いたものを順に張り合わせていき表装を施すことで完成する。これを一枚ごと丁寧に剥がすことで分割は行なわれた。しかしこの後が問題で、歌仙切を入手した各人は、それぞれ思うところの軸装へとつくりかえる際に元絵の余白部分を切断するなどの細工を加えている。このため、仮に37に分かれた歌仙切を接合したとしても元の完全な絵巻そのものには戻せない。さらに例えば伊勢については、絵姿と詞書の配置を左右入れ替えてしまっている。これらが切断事件と呼ばれる所以である。
一方でこの切断の4年後大正12年(1923年)には酒井家から「吉備大臣入唐絵巻」が売りに出され、その後関東大震災を経て買取先がなく結果的に海外流出していることを思えば、やむを得なかったとも言える。
くじ引き
- 益田は実業家で茶人の高橋義雄(号:箒庵)、同じく実業家で茶人の野崎廣太(号:幻庵)を世話人とし、絵巻物の複製などで名高い美術研究家の田中親美を相談役として、三十六歌仙絵巻を37枚(下巻冒頭の住吉明神図を含む)に分割し、くじ引きで希望者に譲渡することとした。
一種独特の奇智ある京都の土橋嘉兵衛老が服部老と協議の結果、茲に分割処分案を立てて其の斡旋本部を益田孝男方に持込んだ、是に於て益田男は余(高橋義雄)と野崎廣太、田中親美、森川勘一郎諸氏を世話方とし、右歌仙絵を一枚づつに分割して、之れに夫れぞれの等差を立て、旧持主山本唯三郎氏に対しては記念として其中の一枚を寄贈し、又其分割に関する諸雑費を込めて各一枚の評価を定め、抽籤を以て之を希望者に頒つ事となったが(略)早速定員以上に達したれば、申込順に依って抽籤者を定め、益田孝男の品川御殿山碧雲台応挙館に於て其抽籤会を執行した
処で茲に之を分断するに就ては、歌仙中に人気者と不人気者とがあり、完全なる者と汚損したる者とがあり、住吉明神の如く、唯住吉の景色と、其歌のみを書いたものがあり、貫之の如く、狩野探幽が其詞書を書添へた者があり、或は躬恒の如く、歌仙も詞書も、共に探幽の補筆に係る者があり、其評価は至難中の至難であつたが、田中、森川等が厳密なる格付比較会議を開いて、三十六歌仙を横綱、三役、幕内、二段目、三段目と分類し、四万円を最高、三千円を最低として、其平準価格たる一万円以上が九枚と為り、夫れより以下は九千円、八千円と、千円づゝ下つて、三千円を最低価と定めたのである。
- そして次のような申合規定が定められ、茶人たちに送付されると、たちまち参加申込みが定員に達したという。
三十六歌仙引受申合規定
一、三十六歌仙中一枚を元愛蔵者たりし山本唯三郎氏に寄贈する事
一、三十六歌仙中各々等差を設けて引受価格を定むる事
一、等差及引受価格は之を田中親美氏に協議し委員並に服部七兵衛、土橋嘉兵衛の両氏等相談の上決定する事
一、歌仙集の元価金参拾五万八千円は之を山本氏に支払ひ其外金貳万円を諸経費に充当し之を引受価格に按配して負担をする事
一、歌仙集は之を写真帖に調整して各自に分配する事
一、服部、土橋両氏等斡旋の労に対して記念品を贈与する事
一、以上申合の外総ての事は処分世話人の取計に一任する事
一、引受の抽籤は来二十日午前十時御殿山応挙館に於いて執行する事
大正八年十二月十六日
処分世話人
益田鈍翁
高橋箒庵
野崎幻庵
- 1919年(大正8年)12月20日、会場となった益田の自邸「応挙館」に集ったのは、次のような錚々たるメンバーであった。
- 野崎廣太
- 世話人の一人。号幻庵。中外商業新報(現日本経済新聞社)創業者、三越呉服店社長など。近代小田原三茶人のひとり。
- 松永安左エ門
- 「電力王」「電力の鬼」と呼ばれた人物。東邦電力、中部共同火力、西部ガス、衆議院議員。号耳庵。近代小田原三茶人のひとり。なお安左エ門は代々の名乗りで、耳庵は三代目である。幼名は亀之助。
- 高橋義雄
- 世話人の一人。号箒庵。三井呉服店(三越)理事。著作に「大正名器鑑」、「東都茶会記」など。
- 團琢磨
- 三井合名会社理事長。1932年血盟団事件で暗殺される。
- 原富太郎
- 号三渓。横浜の豪商原善三郎の孫の婿。富岡製糸場設立者。横浜本牧に三溪園を作り、全国の古建築の建物を移築した。
- 藤原銀次郎
- 富岡製糸場支配人から王子製紙初代社長。「製紙王」
- 住友吉左衛門
- 15代目住友友純(号 春翠)。住友銀行創立者。住友家茶臼山本邸(慶沢園)は現大阪市立美術館(天王寺公園内)。源信明を落札し、井口邨僊に表装させた。
- 野村徳七 (二代)
- 大阪野村銀行(現りそな銀行)、野村證券の創立者。
- 岩原謙三
- 号謙庵。芝浦製作所(現東芝)社長、NHK会長
- 馬越恭平
- 号化生。大日本麦酒社長。「日本のビール王」
- 森川勘一郎
- 愛知県一宮苅安賀の素封家、古筆研究家。号如春庵。茶人として鈍翁、三渓らと交流があった。黒楽茶碗 銘「時雨」を始めとするコレクションは名古屋市に寄贈され、「森川コレクション」として名古屋市博物館所蔵。
- 関戸守彦
- 関戸家は名古屋の富豪信濃屋。尾張藩の御用達商人の三家衆のひとつ。代々美術品を蒐集している。なお当日は病気により子息の有彦氏がくじを引いている。
- 藤田徳次郎
- 藤田組藤田伝三郎の次男。藤田組副社長、藤田鉱業社長など。号耕雪。
- 高橋彦次郎
- 米相場で財をなし高彦将軍と呼ばれた人物。名古屋株式取引所理事長、大正海運社長、東陽倉庫、名古屋鉄道など。
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歌仙茶會
- 益田鈍翁は我が手中に収めた斎宮女御の歌仙切を使って翌大正9年(1920年)3月28日に茶会を催しており、この茶会については野崎廣太(号:幻庵)が「茶会漫録」に記している。
いよいよ本席に入れば、床には曩に同趣味の有志間に分配されたる、彼の有名なる丗六歌仙中の尤物と聞えし、斎宮女御の一軸に新に表装を施したるを掲げ、(略)果たせる哉當面に拝する斎宮女御の一切れは、新装見事に成りて艷麗優雅言はん方なく、表装の裂地は印度古渡り真紅萌黄の染分絞印金をくり抜きにし、之に徳川二代将軍の装束地といふなる浅黄緞子を上下に用ひ、一文字は言ふまでもなく萌黄地印金の處をくり残して直に之に充てつまた風袋は其餘分を以て之に用ひたるものと覺し。蓋し今後この歌仙の表装は皆な思ひゝに心を盡して世に現はれんも、而も之に類する優雅のものは再び見る事を得ざらん也。其畫像は勿論藤原信實の筆にかゝり、詞書は後京極良經の筆跡なる事既に世人の知る處、乃ち其紙中に左の文字あり。
斎宮女御徽子
二品式部卿重明親王女、母貞信公女、承平六年九月成斎宮、年八歳三品、元暦三年爲女御、御年廿三歳、仍號斎宮女御、又號承嘉殿女御。
琴の音に峰の松風通ふらし
いつれの緒より調へ初めけむ
落札者と現在の状態
歌人 | 落札者 | 現所蔵 | 指定 |
【上巻】 | |||
柿本人麿 | 森川勘一郎 1万5千円 | 出光美術館 | 1952年7月19日 重要文化財 |
ほのぼのとあかしの浦のあさぎりに島がくれゆく舟をしぞおもふ | |||
凡河内躬恒 | 横井庄太郎 (古美術商) 3千円 | 個人蔵 | 未指定 |
いづくとも春のひかりはわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる | |||
大伴家持 | 岩原謙三 (芝浦製作所社長) 1万円 | 個人蔵 | 1935年4月30日 重要文化財 |
さをしかの朝たつ小野の秋萩にたまと見るまでおける白露 | |||
在原業平 | 馬越恭平 (大日本麦酒社長) 1万円 | 湯木美術館 | 2000年6月27日 重要文化財 |
世の中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし | |||
素性法師 | 野崎廣太 (中外商業新報社長) 7千円 | (所在不明) | 1936年5月6日 重要文化財 |
いま来むといひしばかりに長月の有明の月をまちいでつるかな | |||
猿丸大夫 | 船橋理三郎 (株屋) 1万2千円 | 個人蔵 | 未指定 |
をちこちのたつきもしらぬやま中におぼつかなくも呼ぶ子鳥かな | |||
藤原兼輔 | 染谷寛治 (鐘淵紡績重役) 1万円 | 個人蔵 | 1938年7月4日 重要文化財 |
人の親のこころはやみにあらねども子を思ふ道にまよいぬるかな | |||
藤原敦忠 | 團琢磨 (三井合名会社理事長) 1万2千円 | 個人蔵 | 1935年4月30日 重要文化財 |
あひみてののちのこころにくらぶれば昔はものを思はざりけり | |||
源公忠 | 藤田彦三郎 (藤田組) 1万円 | 相国寺承天閣美術館 (萬野美術館旧蔵) | 1936年5月6日 重要文化財 |
行きやらで山路くらしつほととぎすいまひとこゑの聞かまほしさに | |||
斎宮女御 | 益田孝 (三井物産社長) 4万円 | 個人蔵 | 重要美術品 |
琴の音に峯の松風かよふらしいづれの緒よりしらべそめけむ | |||
源宗于 | 山本唯三郎 (松昌洋行社長) 山本唯三郎氏ニ贈与スル事 | 文化庁保管 (個人旧蔵・徳美寄託) | 1954年3月20日 重要文化財 |
ときはなる松のみどりも春くればいまひとしほの色まさりけり | |||
藤原敏行 | 関戸守彦 1万5千円 | 個人蔵 | 1952年3月29日 重要文化財 |
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる | |||
藤原清正 | 藤田徳次郎 (藤田組) 6千円 | 個人蔵 | 未指定 |
子の日しにしめつる野辺のひめこ松引かでや千代のかげを待たまし | |||
藤原興風 | 大辻久一郎 8千円 | メナード美術館 (愛知法人旧蔵) | 1936年5月6日 重要文化財 |
たれをかも知るひとにせむ高砂の松も昔の友ならなくに | |||
坂上是則 | 益田英作 (益田孝の弟) 1万円 | 文化庁保管 | 1935年4月30日 重要文化財 |
みよしのの山の白雪つもるらしふる里さむくなりまさりゆく | |||
小大君 | 原富太郎 (生糸貿易商) 2万5千円 | 大和文華館 近鉄グループHD蔵 | 1927年5月6日 重要文化財 |
岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城の神 | |||
大中臣能宣 | 高橋彦次郎 (相場師) 1万1千円 | サンリツ服部美術館 | 1937年5月25日 重要文化財 |
千とせまでかぎれる松もけふよりはきみに引かれてよろつよや経む | |||
平兼盛 | 土橋嘉兵衛 (古美術商) 5千円 | MOA美術館 | 1935年4月30日 重要文化財 |
かぞふればわが身に積るとしつきを送りむかふと何いそぐらん | |||
【下巻】 | |||
住吉明神 | 津田信太郎 3千円 | 東京国立博物館 松永安左エ門氏寄贈 | 1939年5月27日 重要文化財 |
紀貫之 | 服部七兵衛 (古美術商) 3千円 | 耕三寺博物館 耕三寺蔵 | 1936年5月6日 重要文化財 |
さくらちる木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降りける | |||
伊勢 | 有賀長文 (三井合名理事) 1万5千円 | 個人蔵 | 1935年4月30日 重要文化財 |
三輪の山いかに待ち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば | |||
山部赤人 | 藤原銀次郎 (王子製紙社長) 1万円 | 個人蔵 | 未指定 |
わかの浦に潮みちくればかたをなみ葦辺をさしてたづ鳴きわたる | |||
僧正遍照 | 小倉常吉 (小倉石油社長) 5千円 | 出光美術館 | 1937年5月25日 重要文化財 |
すゑの露もとのしづくや世の中のおくれ先だつためしなるらん | |||
紀友則 | 野村徳七 (野村財閥創始者) 1万円 | 野村美術館 | 1941年7月3日 重要文化財 |
夕されば佐保のかはらの川霧に友まよはする千鳥なくなり | |||
小野小町 | 石井定七 (相場師) 3万円 | 個人蔵 (東京国立博物館寄託) | 1936年5月6日 重要文化財 |
いろ見えでうつろふものは世の中の人のこころのはなにぞありける | |||
藤原朝忠 | 小林寿一 5千円 | (所在不明) | 1935年4月30日 重要文化財 |
逢ふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をもうらみざらまし | |||
藤原高光 | 児島嘉助 (古美術商) 8千円 | 逸翁美術館 阪急文化財団 | 1939年5月27日 重要文化財 |
かくばかり経がたく見ゆる世の中にうらやましくも澄める月かな | |||
壬生忠岑 (忠峯) | 西川荘三 1万円 | 東京国立博物館 原操氏寄贈 | 1935年4月30日 重要文化財 |
春立つといふばかりにやみよしのの山もかすみてけさは見ゆらん | |||
大中臣頼基 | 益田信世 (益田孝の子) 9千円 | 遠山記念館 | 1936年5月6日 重要文化財 |
筑波山いとどしげきに紅葉して道みえぬまで落ちやしぬらん | |||
源重之 | 嶋徳蔵 (大阪株式取引所理事長) 4千円 | リードケミカル株式会社 (秋水美術館) | 1936年5月6日 重要文化財 |
吉野山峯のしら雪いつ消えてけさは霞のたちかはるらん | |||
源信明 | 住友吉左衛門(15代) (住友銀行創設者) 5千円 | 泉屋博古館 | 1949年5月30日 重要文化財 |
こひしさは同じこころにあらずとも今宵の月をきみみざらめや | |||
源順 | 高橋義雄 (三越呉服店理事) 9千円 | サントリー美術館 | 1936年5月6日 重要文化財 |
水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のもなかなりける | |||
清原元輔 | 高松定一(3代) (名古屋商工会議所会頭) 1万円 | 五島美術館 | 1935年4月30日 重要文化財 |
秋の野の萩の錦をふるさとに鹿の音ながらうつしてしがな | |||
藤原元真 | 嘉納治兵衛(7代目) (白鶴醸造) 1万円 | 文化庁保管 | 1959年6月27日 重要文化財 |
年ごとの春のわかれをあはれとも人におくるる人ぞしるらん | |||
藤原仲文 | 鈴木馬左也 (住友総理事) 3千円 | 北村美術館 北村文華財団蔵 | 1965年5月29日 重要文化財 |
ありあけの月のひかりを待つほどにわがよのいたくふけにけるかな | |||
壬生忠見 (忠視) | 塚本與三次 1万円 | 個人蔵 | 1936年5月6日 重要文化財 |
焼かずとも草はもえなむ春日野をただ春の日にまかせたらなむ | |||
中務 | 山田徳次郎 8千円 | サンリツ服部美術館 | 1936年5月6日 重要文化財 |
うぐひすの声なかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし |
- なお益田鈍翁が七千円のくじ(平兼盛)を引くが、土橋氏が益田と交換したともいう。また別の話しによれば、斎宮女御は当初関戸守彦氏がくじを引いたが、その後益田鈍翁と交換したと伝わる。関戸守彦氏は藤原敏行を落札する。
しかし当日関戸守彦氏は体調が悪く息子の関戸有彦氏が代理で出席しており、この有彦氏が後に当日のことをNHK取材班に話している。それによれば、前者の土橋氏との交換であったという。
結果的に「平兼盛」は土橋氏が引き受けており、後に鈍翁が土橋氏に送った礼状でも確認できる。その他でも自主的な交換があったようだが、斎宮女御については鈍翁の機嫌を損ねないよう周囲が周旋して交換したことが伺い知れる。なお土橋嘉兵衛はその後、佐竹本三十六歌仙絵のうち、平兼盛、素性、興風を手に入れている。
その後の伝来
- 柿本人麿
- 昭和55年(1980年)までに出光美術館所蔵(森川馨旧蔵)
- 斎宮女御
- 益田孝の死後昭和16年(1941年)ごろに日野原節三氏(昭和電工)所蔵。ただし名義は購入時から宣夫人。益田家所蔵品を一括で購入しており、斎宮女御は購入後もしばらくは益田家にあったようで、昭和17年(1942年)に日野原家に来たという。
- 凡河内躬恒
- 武藤山治から大正9年(1920年)1月に高橋義雄へ
- 小大君
- 原三渓から昭和23年(1948年)8月に大和文華館(近鉄)
- 伊勢
- 有賀長文から昭和10年(1935年)10月に松永安左エ門。※後に住吉明神も入手している。
- 業平
- 馬越恭平は昭和8年(1933年)4月没。昭和25年(1950年)1月に吉兆の湯木貞一へ。昭和62年(1987年)湯木美術館設立。
- 源公忠
- 藤田彦三郎(藤田組)→大原家(倉敷紡績)→萬野裕昭(萬野汽船)→萬野美術館→相国寺に寄贈
- 壬生忠見
- 昭和12年(1937年)2月15日に平井仁兵衛氏から中島徳太郎氏へ譲渡
- 壬生忠岑
- 昭和には原安三郎氏所持。
- 僧正遍照
- 昭和55年(1980年)までに出光佐三所蔵(小倉のぶ旧蔵)
- 源順
- ・昭和12年(1937年)1月9日に山口玄洞(謙一郎、四代目)から山口三郎(後の五代目)へ譲渡
・昭和16年(1941年)2月3日所有者氏名変更。山口三郎から山口玄洞(三郎、五代目)
・昭和55年(1980年)の「国宝・重要文化財総合目録」では、青山企業株式会社蔵(山口玄洞旧蔵)。 - 中務
- ・昭和12年(1937年)1月9日に山口玄洞(謙一郎、四代目)から山口三郎(後の五代目)へ譲渡
・昭和16年(1941年)2月3日所有者氏名変更。山口三郎から山口玄洞(三郎、五代目)
・昭和55年(1980年)の「国宝・重要文化財総合目録」では、東京都中村庸一郎氏蔵(山口玄洞旧蔵)。
山口玄洞(四代目)は洋反物商で、山口玄の創業者。帝国議会議員。「寄付金王」と称されるほどの寄付活動で有名で、裏千家の後援者でもあった。 - 源重之
- 昭和12年(1937年)11月8日に畠山一清から加藤正治へ譲渡
- 平兼盛
- 昭和13年(1938年)12月28日に土橋嘉兵衛から山下亀三郎へ譲渡
- 素性
- 昭和15年(1940年)5月10日に土橋嘉兵衛から矢代仁兵衛へ譲渡
- 藤原興風
- 昭和15年(1940年)9月16日に土橋嘉兵衛から山田勝一へ譲渡
土橋嘉兵衛は京都の古美術商。土橋無声庵。 - 是則
- 昭和16年(1941年)5月14日に津村重舎から津村基太郎へ譲渡。その後津村基太郎が津村重舎へ改名
津村重舎(初代)は中将湯本舗津村順天堂(現、ツムラ)の創業者。津村基太郎はその子で2代目重舎を襲名した。
指定
- また斎宮女御が重要美術品に認定されている。
模写本
- 喜多武清模写
- 江戸時代後期の南画家。上下二巻。文化14年(1817年)。個人蔵
文化十四年丁丑歳春三月廿四日
摸 原本 武清「可庵」(白文方印) - 田中訥言模写
- 江戸時代後期の絵師。上下二巻。寛政6年(1794年)。個人蔵
- 中山養福模写
- 江戸時代末期の絵師。上下二巻。天保7年(1836年)。東博所蔵
- 土屋秀禾木版本
- ・土屋秀禾は明治~大正の画家。秋田市楢山生まれ。佐竹義生侯爵が土屋秀禾に製作させたもの。彫刻は佐藤竹次郎。明治31年(1898年)から着手し、明治34年(1901年)7月に完成。数十部制作され配布された。巻子装ニ巻。秋田県立図書館所蔵ほか
・なおこの版本は大正6年(1917年)に再版されている。木版画本。上下巻編纂者 土屋秀禾
發行者 林縫之助
印刷者 松井三次郎
木版彫刻師 大塚裕次
製本師 鈴村貞次郎
發行所 圖書刊行會
發行所 吉川弘文館 - 田中親美模写
- 日本美術研究家。古絵巻・古筆の第一人者。上下二巻。大正の切断時に模写を行い、その複写本が大正11年(1922年)に100部制作され歌仙切購入者37名に分与されたほか、皇室・皇族、帝室博物館、メトロポリタン美術館、ボストン美術館、ルーブル博物館、大英博物館などにも寄贈された。
展示
- 分割された「佐竹本三十六歌仙切」がまとまった形で展示される機会は少なく、近年では昭和61年(1986年)にサントリー美術館で開催された「開館25周年記念 三十六歌仙絵―佐竹本を中心に」展で、この時は20件が出品された。
- 令和元年(2019年)10月、京都国立博物館の特別展「流転 100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」で31件の出品が行なわれた。これは過去最大であると発表されている。
主な展示
- 大正10年(1921年)4月:4月3日応挙館にて行なわれた辛酉大師会。それに続き帝室博物館(現東博)表慶館にて4月7日~11日まで。住吉明神、人麿、躬恒、小大君、家持、業平、素性、猿丸、敦忠、公忠、斎宮女御、宗于、興風、是則、兼盛、伊勢、赤人、貫之、信明、遍昭、頼基、中務、仲文、順、高光
- 昭和13年(1938年)11月:現東博復興本館開館記念。素性、敦忠、斎宮女御、是則、住吉明神、伊勢、遍照、小町、高光、頼基、重之、順、元輔、中務
- 昭和61年(1986年):サントリー美術館。「開館25周年記念 三十六歌仙絵―佐竹本を中心に」展。20点。
- 平成18年(2006年)1月:出光美術館。「古今和歌集1100年記念祭 歌仙の饗宴」展。人麿、斎宮女御、藤原輿風、小大君、僧正遍照、紀友則、大中臣頼基、藤原元真、壬生忠見
- 平成18年(2006年)9月:東京国立博物館。「特集陳列 佐竹本三十六歌仙絵」展。藤原興風、住吉明神、小野小町、壬生忠岑。
※中山養福の模写本も展示 - 平成25年(2013年)9月:徳川美術館。秋季特別展 「歌仙―王朝歌人への憧れ―」。藤原敦忠、藤原敏行、源宗于、小大君、僧正遍昭、源順、藤原元真、藤原仲文。
※喜多武清の模写本も展示 - 令和元年(2019年)10月:京都国立博物館。「[特別展]流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」。人麿、家持、業平、素性、兼輔、敦忠、源公忠、源宗于、敏行、興風、是則、小大君、能宣、平兼盛、住吉大明神、貫之、赤人、遍照、友則、小町、朝忠、高光、忠岑、頼基、源重之、源信明、順、元輔、元真、仲文、忠視
※展示されないのは、凡河内躬恒、猿丸太夫、斎宮女御、藤原清正、伊勢、中務の6件
※田中訥言、田中親美の模写本も展示
関連項目
「三十六歌仙」
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