佐竹本三十六歌仙絵


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佐竹本三十六歌仙絵巻(さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき)  

絵巻物
佐竹本
佐竹本三十六歌仙切

Table of Contents

概要  

歌仙絵  

  • 藤原公任による私撰集「三十六人撰」に選ばれた歌人36名は、「三十六歌仙」と称されるようになる。
  • 三十六歌仙」を描いたものは「歌仙絵」と呼ばれるが、この近世大名佐竹家に伝来した三十六歌仙絵(佐竹本)は、その中でも特に優れたものとして古来名高く、「佐竹本三十六歌仙絵巻」、切断後は「佐竹本三十六歌仙切」と称される。

佐竹本  

  • 本絵巻は三十六歌仙の肖像画にその代表歌と略歴を添え、巻物形式としたものである。上巻・下巻ともに18名の歌人を収録する。
上巻
(不明)、人麿、躬恒、家持、業平、素性、猿丸、兼輔、敦忠、公忠、斎宮、宗于、敏行、清正、興風、是則、小大君、能宣、兼盛
下巻
(住吉明神)、貫之、伊勢、赤人、遍照、友則、小町、朝忠、高光、忠岑、頼基、重之、信明、順、元輔、元真、仲文、忠見、中務
  • 下巻巻頭には和歌の神とされる住吉明神(住吉大社)の景観が描かれた図があり、上巻巻頭にも、現在は失われているが、玉津姫明神または下鴨神社の景観図があったものと推定されている。

製作  

  • もとは巻子装で上下2巻として製作された。
  • 製作年代は12世紀で、絵の筆者については藤原信実、文字は後京極摂政と呼ばれた九条良経と伝承される。
    • ただし、紀貫之については文字が、また凡河内躬恒については絵及び文字がそれぞれ狩野探幽により補われたものである。このため、截断時の価格が他より低くなっている。
  • 画面には歌人の姿のみを描き、背景や調度品等は一切描かないのが原則であるが、中でも身分の高い斎宮女御徽子は繧繝縁(うんげんべり)の上畳(あげだたみ)に座し、背後に屏風、手前に几帳を置いて格の高さを表している。
  • 「佐竹本三十六歌仙絵巻」は、「上畳本三十六歌仙絵巻」と並んで三十六歌仙図のうちでも最古の遺品であり、鎌倉時代の大和絵系肖像画を代表する作品と評されている。

由来  

  • 「佐竹本」と呼ばれる由来は、旧出羽久保田藩主・佐竹侯爵家に伝来したためである。

伝来  

  • もとは下鴨神社に伝来したものといい、その後旧出羽久保田藩主・佐竹侯爵家に伝来した。

下鴨神社  

  • 木村蒹葭堂(けんかどう)や谷文晁が模写した頃には、まだ本三十六歌仙絵巻は下鴨神社にあったのではないかという。

    蒹葭堂雑録に云、(略)
    其の住吉の図を載せたり。其の図、其の運筆、佐竹家の藏といささかもたがうところなし。因りて按ずるに、佐竹家の藏なるものは、もとは下鴨の神藏にありしにもやあらむ。

    これが事実であれば、佐竹家に伝来したのは年代的に8代佐竹義敦の頃ということになる。そうなると、佐竹家には吉宗が模写させたものと、本品(いわゆる佐竹本)と2つの三十六歌仙絵巻があったことになるが、大正の売立では本品のみが出品されている。

    谷文晁
    宝暦13年(1763年)9月生まれ、天保11年(1840年)12月没。祖父・父ともに田安徳川家の家臣。文晁自身も26歳で田安家に仕えた。谷文晁が模写したものは田安家に伝来し、現在は齋田記念館所蔵。

  • 江戸末期の随筆「蒹葭堂雑録」では、次のように記す。

    京師下鴨の神庫の所藏に三十六歌仙の繪巻物なり、書ハ後京極良經公画ハ左京太夫信実朝臣なり、尤おの/\肖像を画たれども其初住吉の一首ハ風景を画たり、其光景古風たりて今の圖とハ違ひし奇らしきここに模写す

    木村蒹葭堂(きむら けんかどう)
    江戸時代中期の文人・画家・本草学者・蔵書家。元文元年(1736年)11月28日生まれ、享和2年(1802年)没。本草学・文学・物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画・煎茶・篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人であった。また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの大コレクターとしても当時から有名であり、その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の元に訪れた。人々の往来を記録した「蒹葭堂日記」には、現存する20年間だけでも延べ9万人以上の来訪者が著されている。
     随筆「蒹葭堂雑録」は、彼の死後に子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成が整理・抜粋した上で刊行したもの。
    木村蒹葭堂研究資料(近・現代刊行物)|大阪府立図書館

佐竹家  

  • いつごろ佐竹家に伝来したのかは明らかにはなっていない。少なくとも18世紀には伝来していた可能性がある。秋田県では、五代義峯の時か、八代義敦の時という説を紹介している。
    佐竹義峯は出羽久保田藩5代藩主。元禄3年(1690年)9月生まれ、寛延2年(1749年)8月没。

    佐竹義敦は出羽久保田藩8代藩主。寛延元年(1748年)閏10月生まれ、天明5年(1785年)6月没。宝暦8年(1758年)5月に父義明の死去に伴い相続した。狩野派に絵を学び、さらに藩士の小田野直武(「解体新書」の絵を描いた人物)からも教えを受け、日本画に西洋画を組み合わせた一代的な画法を作り出した。画号は佐竹曙山。「絹本著色松に唐鳥図」(重要文化財)などの絵画のほか、膨大な数のスケッチをまとめた「写生帖」(秋田市の有形文化財)などが残る。ただし、徳川実紀や寛政重脩諸家譜などには台覧などの記載なし。
  • 徳川実紀では、将軍吉宗が様々な書画にも興味を懐き、和歌にも通じたとしてその逸話の一つとして、5代藩主佐竹義峯の家に伝来していた「土佐信実筆の歌仙絵巻」を観覧し、住吉広守に模写を命じたと記述する。※これが「佐竹本三十六歌仙絵」であるか否かは不明。

    住吉内記廣守は。土佐流の畫工法眼具慶廣澄が子内藏允廣保が二男なり。祖父が志をつぎ。畫事にこゝろをゆだぬるのよし聞召れ。享保十九年十二月十八日江府に召て畫工の列に加へらる。(略)
    又佐竹右京大夫義峯が家に傳へし歌仙繪卷物をめして御覧ありしに。土佐信實(ママ)の筆にして。希世のものなりしかば。臨摸すべきむねを命ぜらる。内記もいとかしこき事におもひ。精力をつくし。少しも古色にたがはずうつして奉りけるに。これは古の衣服。調度をかうがへわくべきたより多ければ。汝が家に傳へ。永く粉本となすべしと仰下され。今もそが家に珍藏すといへり。
    (有徳院殿御實紀附録卷十六)

    古畫目録云、三十六歌仙二巻、藤原信實筆、眞跡佐竹右京大夫藏、摹本在住吉内記家

    住吉広守(すみよし ひろもり)
    江戸時代中期の画家。宝永2年(1705年)生まれ、安永6年(1777年)10月21日に73歳で没。享保19年(1734年)12月に幕府の御用絵師となっている。号 賀慶、至全、慶至。祖父の住吉具慶は、幕府の奥絵師となり大和絵住吉派興隆の基礎を築いた。
  • 明治15年(1882年)の内国絵画共進会に出品。佐竹義堯は出羽久保田藩第12代(最後)の藩主。

                佐竹義堯出品
    三十六歌仙(藤原信實筆)(歌後京極良経) 二巻
      好古少録云後世ノ衣服ヲ以テ當時ヲ寫ス古昔ノ制ヲ
      考ルニ益ナシ六七百年來ノ衣服詳ニ考フヘシ

大正売立  

  • 1917年(大正6年)11月、東京両国の東京美術倶楽部で佐竹家の所蔵品の売立てが行われ、三十六歌仙絵巻は東京と関西の古美術業者9店が合同で35万3千円で落札した。
    当時の1万円は21世紀初頭現在の価値で諸説あるが約1億円とされ、総額36億円ほどということになる。そのため、一社で落札しうる業者が存在せず、やむなく共同落札という形なったという。

    六六 信實三十六歌仙 詞書後京極良経卿 ニ巻

    十一月二日特別下見、三日四日普通下見、五日入開札を両国美術倶楽部に挙行する都合と為ったが、此入札会に於て無論レコード破りを出すべき名品は信実筆三十六歌仙、後京極良経詞書の絵巻物二巻で(中略)
    而して彼の信実三十六歌仙巻物は最初四十萬圓の止値を入れ置きたいと云ふ希望であったが、歌仙の一人は狩野探幽の補足であるから、信実筆は三十五人として一人一萬圓即ち三十五萬圓が至当の値頃ならんとて止値を矢張其通りにした。是れより先き益田男は三井家を説いて同倶楽部の備品と為さしめんとしたが、其承認を得る能はなかったので、札元全部総合して之を三十五萬三千圓にて落札し(略)

    信実筆三十六歌仙巻 金三十五萬三千圓 札元一同

山本唯三郎  

  • その後この絵巻を購入したのは、山本唯三郎である。

    余(高橋義雄)は益田男と共に札元連中を説得し兎に角三十五萬三千圓で引受けさせたが、其の後京都の服部七兵衛老が周旋して当時船成金の一人虎大盡山本唯三郎氏に譲渡す事と為った

  • 山本は松昌洋行という貿易商社を起こし、中国で材木の輸出、石炭の輸入などの事業を行い、後に海運業で財を成した人物である。朝鮮半島へ虎狩りに行ったことから「虎大尽」の異名を取り、数々の武勇談や奇行に満ちた人物であった。

絵巻分割  

  • しかし第一次大戦の終了により経済状況は悪化し、山本は1919年(大正8年)には売りに出すことを検討する。

    然るに大正八年に至り船成金が大打撃を蒙り、山本氏も御多分に漏れず再び之を処分せざる可らざる場合に立至った

  • ところが、時節柄、高価な絵巻を1人で買い取れる収集家はどこにもいなかった。この絵巻の買い取り先を探していた服部七兵衛、土橋嘉兵衛らの古美術商は、当時、茶人・美術品コレクターとして高名だった、実業家益田孝(号:鈍翁)のところへ相談に行った。
  • 大コレクターとして知られた益田もさすがにこの絵巻を一人で買い取ることはできず、彼の決断で、絵巻を歌仙一人ごとに分割して譲渡することとなった。
    切断事件などと書かれることがあるが、絵巻自体は元々長大な一枚紙に描かれるわけではなく、大きな紙に描いたものを順に張り合わせていき表装を施すことで完成する。これを一枚ごと丁寧に剥がすことで分割は行なわれた。しかしこの後が問題で、歌仙切を入手した各人は、それぞれ思うところの軸装へとつくりかえる際に元絵の余白部分を切断するなどの細工を加えている。このため、仮に37に分かれた歌仙切を接合したとしても元の完全な絵巻そのものには戻せない。さらに例えば伊勢については、絵姿と詞書の配置を左右入れ替えてしまっている。これらが切断事件と呼ばれる所以である。

くじ引き  

  • 益田は実業家で茶人の高橋義雄(号:箒庵)、同じく実業家で茶人の野崎廣太(号:幻庵)を世話人とし、絵巻物の複製などで名高い美術研究家の田中親美を相談役として、三十六歌仙絵巻を37枚(下巻冒頭の住吉明神図を含む)に分割し、くじ引きで希望者に譲渡することとした。

    一種独特の奇智ある京都の土橋嘉兵衛老が服部老と協議の結果、茲に分割処分案を立てて其の斡旋本部を益田孝男方に持込んだ、是に於て益田男は余(高橋義雄)と野崎廣太、田中親美、森川勘一郎諸氏を世話方とし、右歌仙絵を一枚づつに分割して、之れに夫れぞれの等差を立て、旧持主山本唯三郎氏に対しては記念として其中の一枚を寄贈し、又其分割に関する諸雑費を込めて各一枚の評価を定め、抽籤を以て之を希望者に頒つ事となったが(略)早速定員以上に達したれば、申込順に依って抽籤者を定め、益田孝男の品川御殿山碧雲台応挙館に於て其抽籤会を執行した

    処で茲に之を分断するに就ては、歌仙中に人気者と不人気者とがあり、完全なる者と汚損したる者とがあり、住吉明神の如く、唯住吉の景色と、其歌のみを書いたものがあり、貫之の如く、狩野探幽が其詞書を書添へた者があり、或は躬恒の如く、歌仙も詞書も、共に探幽の補筆に係る者があり、其評価は至難中の至難であつたが、田中、森川等が厳密なる格付比較会議を開いて、三十六歌仙を横綱、三役、幕内、二段目、三段目と分類し、四万円を最高、三千円を最低として、其平準価格たる一万円以上が九枚と為り、夫れより以下は九千円、八千円と、千円づゝ下つて、三千円を最低価と定めたのである。

  • そして次のような申合規定が定められ、茶人たちに送付されると、たちまち参加申込みが定員に達したという。

     三十六歌仙引受申合規定
    一、三十六歌仙中一枚を元愛蔵者たりし山本唯三郎氏に寄贈する事
    一、三十六歌仙中各々等差を設けて引受価格を定むる事
    一、等差及引受価格は之を田中親美氏に協議し委員並に服部七兵衛、土橋嘉兵衛の両氏等相談の上決定する事
    一、歌仙集の元価金参拾五万八千円は之を山本氏に支払ひ其外金貳万円を諸経費に充当し之を引受価格に按配して負担をする事
    一、歌仙集は之を写真帖に調整して各自に分配する事
    一、服部、土橋両氏等斡旋の労に対して記念品を贈与する事
    一、以上申合の外総ての事は処分世話人の取計に一任する事
    一、引受の抽籤は来二十日午前十時御殿山応挙館に於いて執行する事
      大正八年十二月十六日
           処分世話人
              益田鈍翁
              高橋箒庵
              野崎幻庵

  • 1919年(大正8年)12月20日、会場となった益田の自邸「応挙館」に集ったのは、次のような錚々たるメンバーであった。
野崎廣太
世話人の一人。号幻庵。中外商業新報(現日本経済新聞社)創業者、三越呉服店社長など。近代小田原三茶人のひとり。
松永安左エ門
「電力王」「電力の鬼」と呼ばれた人物。東邦電力、中部共同火力、西部ガス、衆議院議員。号耳庵。近代小田原三茶人のひとり。なお安左エ門は代々の名乗りで、耳庵は三代目である。幼名は亀之助。
高橋義雄
世話人の一人。号箒庵。三井呉服店(三越)理事。著作に「大正名器鑑」、「東都茶会記」など。
團琢磨
三井合名会社理事長。1932年血盟団事件で暗殺される。
原富太郎
号三渓。横浜の豪商原善三郎の孫の婿。富岡製糸場設立者。横浜本牧に三溪園を作り、全国の古建築の建物を移築した。
藤原銀次郎
富岡製糸場支配人から王子製紙初代社長。「製紙王」
住友吉左衛門
15代目住友友純。住友銀行創立者。住友家茶臼山本邸(慶沢園)は現大阪市立美術館。
野村徳七 (二代)
大阪野村銀行(現りそな銀行)、野村證券の創立者。
岩原謙三
号謙庵。芝浦製作所(現東芝)社長、NHK会長
馬越恭平
号化生。大日本麦酒社長。「日本のビール王」
森川勘一郎
愛知県一宮苅安賀の素封家、古筆研究家。号如春庵。茶人として鈍翁、三渓らと交流があった。黒楽茶碗 銘「時雨」を始めとするコレクションは名古屋市に寄贈され、「森川コレクション」として名古屋市博物館所蔵。
関戸守彦
関戸家は名古屋の富豪信濃屋。尾張藩の御用達商人の三家衆のひとつ。代々美術品を蒐集している。なお当日は病気により子息の有彦氏がくじを引いている。
藤田徳次郎
藤田組藤田伝三郎の次男。藤田組副社長、藤田鉱業社長など。号耕雪。
高橋彦次郎
米相場で財をなし高彦将軍と呼ばれた人物。名古屋株式取引所理事長、大正海運社長、東陽倉庫、名古屋鉄道など。

なお、後に小林一三が購入し、現在は逸翁美術館で所蔵する「藤原高光」には金属の棒が付属しており、「二十九番」の文字が記されている。これにより高光が29番くじであったことがわかる。「現場で、仙海(阪急文化財団理事、逸翁美術館館長)さんに面白いものを見せていただきました。写真の中央、絵巻が収められた箱を開けると、そこには金属でできた細い棒が!さらに「二十九番」の文字。番組でもご紹介したくじ引きで使われたくじが一緒に収められていたのです。」
幻の絵画 流転のドラマ 至高の美 佐竹本三十六歌仙絵 | 歴史秘話ヒストリア | 関西ブログ

歌仙茶會  

  • 益田鈍翁は我が手中に収めた斎宮女御の歌仙切を使って翌大正9年(1920年)3月28日に茶会を催しており、この茶会については野崎廣太(号:幻庵)が「茶会漫録」に記している。

    いよいよ本席に入れば、床には曩に同趣味の有志間に分配されたる、彼の有名なる丗六歌仙中の尤物と聞えし、斎宮女御の一軸に新に表装を施したるを掲げ、(略)果たせる哉當面に拝する斎宮女御の一切れは、新装見事に成りて艷麗優雅言はん方なく、表装の裂地は印度古渡り真紅萌黄の染分絞印金をくり抜きにし、之に徳川二代将軍の装束地といふなる浅黄緞子を上下に用ひ、一文字は言ふまでもなく萌黄地印金の處をくり残して直に之に充てつまた風袋は其餘分を以て之に用ひたるものと覺し。蓋し今後この歌仙の表装は皆な思ひゝに心を盡して世に現はれんも、而も之に類する優雅のものは再び見る事を得ざらん也。其畫像は勿論藤原信實の筆にかゝり、詞書は後京極良經の筆跡なる事既に世人の知る處、乃ち其紙中に左の文字あり。
     
     斎宮女御徽子
       二品式部卿重明親王女、母貞信公女、承平六年九月成斎宮、年八歳三品、元暦三年爲女御、御年廿三歳、仍號斎宮女御、又號承嘉殿女御。
         琴の音に峰の松風通ふらし
                   いつれの緒より調へ初めけむ

落札者と現在の状態  

現所蔵は公表されているもの以外は正確ではない可能性があります。

歌人落札者現所蔵指定
【上巻】
柿本人麿森川勘一郎
1万5千円
出光美術館1952年7月19日
重要文化財
ほのぼのとあかしの浦のあさぎりに島がくれゆく舟をしぞおもふ
凡河内躬恒横井庄太郎
(古美術商)
3千円
個人蔵未指定
いづくとも春のひかりはわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる
大伴家持岩原謙三
(芝浦製作所社長)
1万円
個人蔵1935年4月30日
重要文化財
さをしかの朝たつ小野の秋萩にたまと見るまでおける白露
在原業平馬越恭平
(大日本麦酒社長)
1万円
湯木美術館2000年6月27日
重要文化財
世の中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし
素性法師野崎廣太
(中外商業新報社長)
7千円
(所在不明)1936年5月6日
重要文化財
いま来むといひしばかりに長月の有明の月をまちいでつるかな
猿丸大夫船橋理三郎
(株屋)
1万2千円
個人蔵未指定
をちこちのたつきもしらぬやま中におぼつかなくも呼ぶ子鳥かな
藤原兼輔染谷寛治
(鐘淵紡績重役)
1万円
個人蔵1938年7月4日
重要文化財
人の親のこころはやみにあらねども子を思ふ道にまよいぬるかな
藤原敦忠團琢磨
(三井合名会社理事長)
1万2千円
個人蔵1935年4月30日
重要文化財
あひみてののちのこころにくらぶれば昔はものを思はざりけり
源公忠藤田彦三郎
(藤田組)
1万円
相国寺承天閣美術館
(萬野美術館旧蔵)
1936年5月6日
重要文化財
行きやらで山路くらしつほととぎすいまひとこゑの聞かまほしさに
斎宮女御益田孝
(三井物産社長)
4万円
個人蔵重要美術品
琴の音に峯の松風かよふらしいづれの緒よりしらべそめけむ
源宗于山本唯三郎
(松昌洋行社長)
山本唯三郎氏ニ贈与スル事
文化庁保管
(個人旧蔵・徳美寄託)
1954年3月20日
重要文化財
ときはなる松のみどりも春くればいまひとしほの色まさりけり
藤原敏行関戸守彦
1万5千円
個人蔵1952年3月29日
重要文化財
秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
藤原清正藤田徳次郎
(藤田組)
6千円
個人蔵未指定
子の日しにしめつる野辺のひめこ松引かでや千代のかげを待たまし
藤原興風大辻久一郎
8千円
メナード美術館
(愛知法人旧蔵)
1936年5月6日
重要文化財
たれをかも知るひとにせむ高砂の松も昔の友ならなくに
坂上是則益田英作
益田孝の弟)
1万円
文化庁保管1935年4月30日
重要文化財
みよしのの山の白雪つもるらしふる里さむくなりまさりゆく
小大君原富太郎
(生糸貿易商)
2万5千円
大和文華館
近鉄グループHD蔵
1927年5月6日
重要文化財
岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城の神
大中臣能宣高橋彦次郎
(相場師)
1万1千円
サンリツ服部美術館1937年5月25日
重要文化財
千とせまでかぎれる松もけふよりはきみに引かれてよろつよや経む
平兼盛土橋嘉兵衛
(古美術商)
5千円
MOA美術館1935年4月30日
重要文化財
かぞふればわが身に積るとしつきを送りむかふと何いそぐらん
【下巻】
住吉明神津田信太郎
3千円
東京国立博物館
松永安左エ門氏寄贈
1939年5月27日
重要文化財
紀貫之服部七兵衛
(古美術商)
3千円
耕三寺博物館
耕三寺蔵
1936年5月6日
重要文化財
さくらちる木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降りける
伊勢有賀長文
(三井合名理事)
1万5千円
個人蔵1935年4月30日
重要文化財
三輪の山いかに待ち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば
山部赤人藤原銀次郎
(王子製紙社長)
1万円
個人蔵未指定
わかの浦に潮みちくればかたをなみ葦辺をさしてたづ鳴きわたる
僧正遍照小倉常吉
(小倉石油社長)
5千円
出光美術館1937年5月25日
重要文化財
すゑの露もとのしづくや世の中のおくれ先だつためしなるらん
紀友則野村徳七
(野村財閥創始者)
1万円
野村美術館1941年7月3日
重要文化財
夕されば佐保のかはらの川霧に友まよはする千鳥なくなり
小野小町石井定七
(相場師)
3万円
個人蔵
東京国立博物館寄託)
1936年5月6日
重要文化財
いろ見えでうつろふものは世の中の人のこころのはなにぞありける
藤原朝忠小林寿一
5千円
(所在不明)1935年4月30日
重要文化財
逢ふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身をもうらみざらまし
藤原高光児島嘉助
(古美術商)
8千円
逸翁美術館
阪急文化財団
1939年5月27日
重要文化財
かくばかり経がたく見ゆる世の中にうらやましくも澄める月かな
壬生忠岑
(忠峯)
西川荘三
1万円
東京国立博物館
原操氏寄贈
1935年4月30日
重要文化財
春立つといふばかりにやみよしのの山もかすみてけさは見ゆらん
大中臣頼基益田信世
益田孝の子)
9千円
遠山記念館1936年5月6日
重要文化財
筑波山いとどしげきに紅葉して道みえぬまで落ちやしぬらん
源重之嶋徳蔵
(大阪株式取引所理事長)
4千円
個人蔵1936年5月6日
重要文化財
吉野山峯のしら雪いつ消えてけさは霞のたちかはるらん
源信明住友吉左衛門(15代)
(住友銀行創設者)
5千円
泉屋博古館1949年5月30日
重要文化財
こひしさは同じこころにあらずとも今宵の月をきみみざらめや
源順高橋義雄
(三越呉服店理事)
9千円
サントリー美術館1936年5月6日
重要文化財
水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のもなかなりける
清原元輔高松定一(3代)
(名古屋商工会議所会頭)
1万円
五島美術館1935年4月30日
重要文化財
秋の野の萩の錦をふるさとに鹿の音ながらうつしてしがな
藤原元真嘉納治兵衛(7代目)
(白鶴醸造)
1万円
文化庁保管1959年6月27日
重要文化財
年ごとの春のわかれをあはれとも人におくるる人ぞしるらん
藤原仲文鈴木馬左也
(住友総理事)
3千円
北村美術館
北村文華財団蔵
1965年5月29日
重要文化財
ありあけの月のひかりを待つほどにわがよのいたくふけにけるかな
壬生忠見
(忠視)
塚本與三次
1万円
個人蔵1936年5月6日
重要文化財
焼かずとも草はもえなむ春日野をただ春の日にまかせたらなむ
中務山田徳次郎
8千円
サンリツ服部美術館1936年5月6日
重要文化財
うぐひすの声なかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし
  • なお益田鈍翁が七千円のくじ(平兼盛)を引くが、土橋氏が益田と交換したともいう。また別の話しによれば、斎宮女御は当初関戸守彦氏がくじを引いたが、その後益田鈍翁と交換したと伝わる。関戸守彦氏は藤原敏行を落札する。
    しかし当日関戸守彦氏は体調が悪く息子の関戸有彦氏が代理で出席しており、この有彦氏が後に当日のことをNHK取材班に話している。それによれば、前者の土橋氏との交換であったという。結果的に「平兼盛」は土橋氏が引き受けており、後に鈍翁が土橋氏に送った礼状でも確認できる。その他でも自主的な交換があったようだが、斎宮女御については鈍翁の機嫌を損ねないよう周囲が周旋して交換したことが伺い知れる。

その後の伝来  

斎宮女御
益田孝の死後昭和16年(1941年)ごろに日野原節三氏(昭和電工)所蔵。ただし名義は購入時から宣夫人。益田家所蔵品を一括で購入しており、斎宮女御は購入後もしばらくは益田家にあったようで、昭和17年(1942年)に日野原家に来たという。
凡河内躬恒
武藤山治から大正9年(1920年)1月に高橋義雄へ
小大君
原三渓から昭和23年(1948年)8月に大和文華館(近鉄)
伊勢
有賀長文から昭和10年(1935年)10月に松永安左エ門。※後に住吉明神も入手している。
業平
馬越恭平は昭和8年(1933年)4月没。昭和25年(1950年)1月に吉兆の湯木貞一へ。昭和62年(1987年)湯木美術館設立。
源公忠
藤田彦三郎(藤田組)→大原家(倉敷紡績)→萬野裕昭(萬野汽船)→萬野美術館→相国寺に寄贈
壬生忠見
昭和12年(1937年)2月15日に平井仁兵衛氏から中島徳太郎氏へ譲渡
源順
・昭和12年(1937年)1月9日に山口玄洞(謙一郎、四代目)から山口三郎(後の五代目)へ譲渡
・昭和16年(1941年)2月3日所有者氏名変更。山口三郎から山口玄洞(三郎、五代目)
中務
・昭和12年(1937年)1月9日に山口玄洞(謙一郎、四代目)から山口三郎(後の五代目)へ譲渡
・昭和16年(1941年)2月3日所有者氏名変更。山口三郎から山口玄洞(三郎、五代目)
山口玄洞(四代目)は洋反物商で、山口玄の創業者。帝国議会議員。「寄付金王」と称されるほどの寄付活動で有名で、裏千家の後援者でもあった。
源重之
昭和12年(1937年)11月8日に畠山一清から加藤正治へ譲渡
平兼盛
昭和13年(1938年)12月28日に土橋嘉兵衛から山下亀三郎へ譲渡
素性
昭和15年(1940年)5月10日に土橋嘉兵衛から矢代仁兵衛へ譲渡
藤原興風
昭和15年(1940年)9月16日に土橋嘉兵衛から山田勝一へ譲渡
土橋嘉兵衛は京都の古美術商。土橋無声庵。
是則
昭和16年(1941年)5月14日に津村重舎から津村基太郎へ譲渡。その後津村基太郎が津村重舎へ改名
津村重舎(初代)は中将湯本舗津村順天堂(現、ツムラ)の創業者。津村基太郎はその子で2代目重舎を襲名した。

指定  

  • 現在32図が重要文化財に指定されている。
    • 指定名は下記のいずれかの様式となり、下線部に歌人名が入る。
      1. 紙本著色柿本人麿像〈/(佐竹本三十六歌仙切)〉
      2. 紙本著色三十六歌仙切〈(伊勢)/佐竹家伝来〉

模写本  

谷文晁模写
江戸時代後期の南画家。住吉明神の紙背に「谷文晁之写 書明忠写也」の書入れがあり、田安徳川家の所蔵を示す「献英楼図書記」「田安府芸堂印」が捺される。齋田記念館所蔵
喜多武清模写
江戸時代後期の南画家。上下二巻。文化14年(1817年)。個人蔵

文化十四年丁丑歳春三月廿四日
摸 原本 武清「可庵」(白文方印)

田中訥言模写
江戸時代後期の絵師。上下二巻。寛政6年(1794年)。個人蔵
中山養福模写
江戸時代末期の絵師。上下二巻。天保7年(1836年)。東博所蔵
土屋秀禾木版本
・土屋秀禾は明治~大正の画家。秋田市楢山生まれ。佐竹義生侯爵が土屋秀禾に製作させたもの。彫刻は佐藤竹次郎。明治31年(1898年)から着手し、明治34年(1901年)7月に完成。数十部制作され配布された。巻子装ニ巻。秋田県立図書館所蔵ほか
・なおこの版本は大正6年(1917年)に再版されている。木版画本。上下巻

編纂者 土屋秀禾
發行者 林縫之助
印刷者 松井三次郎
木版彫刻師 大塚裕次
製本師 鈴村貞次郎
發行所 圖書刊行會
發行所 吉川弘文館

田中親美模写
日本美術研究家。古絵巻・古筆の第一人者。上下二巻。大正の切断時に模写を行い、その複写本が大正11年(1922年)に100部制作され歌仙切購入者37名に分与されたほか、皇室・皇族、帝室博物館、メトロポリタン美術館、ボストン美術館、ルーブル博物館、大英博物館などにも寄贈された。

展示  

  • 分割された「佐竹本三十六歌仙切」がまとまった形で展示される機会は少なく、近年では昭和61年(1986年)にサントリー美術館で開催された「開館25周年記念 三十六歌仙絵―佐竹本を中心に」展で、この時は20件が出品された。
  • 令和元年(2019年)10月、京都国立博物館の特別展「流転 100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」で31件の出品が行なわれた。これは過去最大であると発表されている。

その他  

  1. 大正10年(1921年)4月:4月3日応挙館にて行なわれた辛酉大師会。それに続き帝室博物館(現東博)表慶館にて4月7日~11日まで。住吉明神、人麿、躬恒、小大君、家持、業平、素性、猿丸、敦忠、公忠、斎宮女御、宗于、興風、是則、兼盛、伊勢、赤人、貫之、信明、遍昭、頼基、中務、仲文、順、高光
  2. 昭和13年(1938年)11月:現東博復興本館開館記念。素性、敦忠、斎宮女御、是則、住吉明神、伊勢、遍照、小町、高光、頼基、重之、順、元輔、中務
  3. 平成18年(2006年)1月:出光美術館。「古今和歌集1100年記念祭 歌仙の饗宴」展。人麿、斎宮女御、藤原輿風、小大君、僧正遍照、紀友則、大中臣頼基、藤原元真、壬生忠見
  4. 平成18年(2006年)9月:東京国立博物館。「特集陳列 佐竹本三十六歌仙絵」展。藤原興風、住吉明神、小野小町、壬生忠岑。中山養福の模写本も展示
  5. 平成25年(2013年)9月:徳川美術館。秋季特別展 「歌仙―王朝歌人への憧れ―」。藤原敦忠、藤原敏行、源宗于、小大君、僧正遍昭、源順、藤原元真、藤原仲文。喜多武清の模写本も展示

関連項目  

三十六歌仙


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