伏見正宗


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Table of Contents

 伏見正宗(ふしみまさむね)

短刀
無銘 正宗
重要文化財
個人所蔵

  • 享保名物帳所載

    伏見正宗 駒目貫 金森 無銘長八寸五分 代金三百枚 松平若狭守殿
    家康公於伏見被召上、金森法印御取次、目貫に駒を御打せ三品に名付申候由、乱脇差の恰好には過たり、松姫様御入輿の刻拝領

  • 詳註刀剣名物帳

    この松平若狭守は前田中納言綱紀の世子なり、綱紀の子吉徳初め勝次郎、また勝丸、のち犬千代、また又左衛門次の若狭守と稱しのち加賀守となる。内室は五代將軍綱吉の養女、實は尾張中納言綱誠の女なり松姫と稱す。

  • 平造り、真の棟、無反り。鋩子は乱れこんで沸えで崩れる。生ぶ中心、中心尻は剣形。目釘孔2個。無銘
  • 腰刀拵が附属する。

 由来

  • 徳川家康が金森法印長近の取次により伏見城において入手したためこの名がついたという。
  • 金森長親が取り次いだため「金森正宗」とも呼ばれる。また拵えの目貫が駒であったために「駒目貫正宗」ともいう。

 来歴

 家康

  • 徳川家康が金森法印長近の取次により伏見城において入手。
  • 始め二百五十枚の代付け。

 蜂須賀至鎮

  • 慶長5年(1600年)、家康の養女氏姫(小笠原秀政の娘、敬台院)が阿波徳島藩初代藩主の蜂須賀至鎮に嫁いだ際に婿引出として拝領した。
  • 延宝6年(1678年)10月、4代藩主蜂須賀綱通の遺物として将軍家に正宗脇差が献上されており、この時に将軍家に戻ったものと思われる。

 水戸家・将軍家

  • いつごろか水戸家へ移っていた。

    伏見正宗 水戸様 二百枚

  • 元禄3年(1690年)10月、水戸光圀より将軍家へ致仕の挨拶の際に献上。

    廿八日水戸中納言光圀卿致仕を謝せられ。伏見正宗の差添。京極中納言定家卿の小倉色紙一軸。金馬代。時服十捧げ。(略)少将綱條朝臣よりは備前近景太刀。銀五百枚。時服二十。

    • 元禄三年本阿弥光常極め、三百枚の折り紙がある。

 前田吉徳

  • 宝永5年(1708年)11月30日、将軍綱吉の養女松姫(尾張3代藩主綱誠の娘)が前田吉徳(加賀藩第5代藩主)に輿入れした際に、婿引き出として来国光の刀とともに贈られた。

    晦日松姫君御方御祝とて。(略)姫君やがて大奧へのぼらる。若狹守吉徳もまうのぼり黒木書院にて拜謁し。備前長則の太刀。銀千放。時服百。𥿻二百疋。加賀守綱紀は一文守の太刀。金百枚。時服五十。綿五百把。備前長光の刀。弟造酒之丞利章は太刀金馬代。時服十獻じ。吉徳に國光の御刀。伏見正宗の御さしぞへを給ひ。御盃下さる。また加賀守綱紀に來國光の御脇差。造酒之丞利章へ粟田口國吉の御わきざしを給ひ。

  • 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では木村已之吉氏所持。




 伏見正宗(ふしみまさむね)


大磨上無銘(伏見正宗)

  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    伏見正宗 磨上長二尺三寸二分 代金二百枚 御物
    秀忠公於伏見被召上、裏鐺(こじり)より平へかけ大き成る切込あり

  • 短刀ではなく刀の伏見正宗。
  • 差裏に鎬から平にかけ大きな切込。
  • 秀忠が伏見で召し上げたための号というが、古い享保名物帳には秀吉とあり秀吉からのち徳川将軍家に伝わったとされる。
  • 代金二百枚の折り紙つき
  • こちらは明暦の大火で焼けている。

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