亘理来国光
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亘理来国光(わたりらいくにみつ)
- 御宝物之部仙台家御腰物之帳(仙台家御腰物元帳)
亘理来国光御刀 代千五百貫
銘有 長二尺四寸一分
由来
- 伊達家一族の亘理家所蔵にちなむ。
亘理来ハ元ハ亘理ノ重代ニテ大約物ナリ
来歴
- 元は伊達家重臣である亘理兵庫頭入道元安斎の所持。
亘理氏第17代当主の亘理元宗のこと。亘理元宗は、伊達稙宗の十二男(伊達晴宗の異母兄弟)として生まれた。生母は亘理氏第16代当主亘理宗隆の娘で、跡継ぎのいなかった宗隆は娘と稙宗との間に生まれた男子2人を養嗣子に迎えた。天文12年(1543年)に同母兄の綱宗が討死したため、その後を承けて亘理氏の跡取りとなり、天文の乱終結後に亘理家の家督を相続した。
天文21年(1552年)には長兄である伊達晴宗の命を受け上洛しており、この時に甲斐の武田信虎の知遇を得て、佩刀「綱広」を贈られている。伊達一門の重鎮として軍事・外交面で活躍した。文禄3年(1594年)6月に病死、享年65。
- その死後、遺物として伊達宗家に献上された。なお元宗の孫(伊達定宗)の代に伊達姓を名乗ることを許され、元宗の子孫は仙台藩一門第四席、涌谷伊達家として続いた。
涌谷伊達家の当主は代々「伊達安芸」を通称とした。2代伊達宗重が伊達騒動(寛文事件)で登場する伊達安芸である。「牛王吉光」の項参照。
- 本刀「亘理来国光」は、伊達政宗が登城の際に差料としたと伝わる。
- 老年にいたり、伊達政宗は本刀「亘理来」、「くろんぼ斬景秀」、「鎬藤四郎」、「鎺国行」について、この歳まで身から離さず秘蔵してきたため今後も他家に出さぬよう命じたという。
公毎年元日ニハ白綾ノ御小袖ニ菊桐ノ御紋付クルヲ召サセラル、御長袴ノ上ニ御小サ刀鎬藤四郎ノ御小脇指ヲ指セラル(略)近年ハ、此鎬藤四郎ノ小脇指ヲ指ス、刀ハ景秀、亘理来、鎺国行ナリ、此三腰ハ何レモ劣ラヌ大役、身ヲ放タヌ重宝ノ道具ナリ
- 御腰物方御道具本帳
延宝九年酉卯月三日
亘理来国光御刀 代千五百貫
銘在 長弐尺四寸壱分半
- また仙台藩6代藩主の伊達宗村もこれを愛用したという。
- 明治16年(1883年)~17年ごろまで仙台南町御蔵にて保管。
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