乱光包


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 乱光包(みだれみつかね)

短刀
銘 光包
名物 乱光包
9寸7分半(長29.2cm 元幅2.5cm 元重0.7cm 茎長9.8cm)
重要文化財
日本美術刀剣保存協会所蔵(刀剣博物館展示)

  • 「乱れ光包」
  • 来一門、中堂来光包の作で、備前在住のころの初期作とされる。
  • 享保名物帳所載:追加の部

    乱光包 在銘長九寸七分半 代金三百枚 御物
    出来常に替る故に名付、宝永五子の十一月晦日松姫君様御縁組の刻、津田長光と一所に宰相殿より綱吉公へ上る

  • 平造り、庵棟、内反やや寸延びの短刀。
  • 表裏に刀樋掻流し、中心うぶ。目釘孔二、目釘孔の下中央に細鏨大振りの「光包」二字銘。

 由来

  • 出来が常に変るために名付けられたという。

 来歴

  • 元は前田家の重臣、本多政重所持。
    本多政重は本多正信の次男。倉橋長右衛門の養子となったのち事件をお越し出奔するが、のち前田家に帰参して重用され、子孫は加賀八家の本多家となっている。
  • のち藩主前田利常に献上。
    利常への献上であることを考えると、恐らく慶長17年(1612年)の帰参時ではないかと思われる。
  • 宝永5年(1708年)11月晦日、加賀藩主前田吉徳(5代前田綱紀の子)の正室に、将軍綱吉の養女松姫(光現院、尾張中納言綱成の娘)を迎えている。
  • この時にこの「乱光包」は、「津田遠江長光」、一文字の太刀とともに、前田綱紀より将軍家に献上された。このときすでに三百枚の折り紙つき。
  • この経緯が鞘書きに残る。

    宝永五年子十一月晦日 御入輿相済候、御祝儀之時、光包御脇指指代金三百枚長九寸七分松平加賀守上

  • 享保年間は将軍御物
  • 幕末の幕臣大久保一翁(海防掛、京都町奉行)が、明治維新後にこの短刀を所持したという。一翁の死後、刀はすべて徳川家に預けられたため、本刀も徳川家で買い上げられた。
    大久保一翁は旗本の大久保忠尚の子。徳川家斉の小姓を勤め、老中の阿部正弘に早くから見出されて安政元年(1854年)に目付・海防掛に任じられた。のち軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取などを歴任し、駿府町奉行・京都町奉行なども務めた。井伊直弼に疎まれ奉行職を罷免させられるが、直弼没後に復帰、外国奉行・大目付・御側御用取次・若年寄・会計総裁などの要職を歴任する。明治政府では東京府の第5代知事などに就いている。明治21年(1888年)7月31日死去。
  • 昭和8年(1933年)7月25日に重要美術品指定。徳川家達候爵所持(徳川家達旧蔵、家正公爵所持)。
  • 戦後佐野美術館の所蔵となる。
  • 昭和34年(1959年)6月27日に重要文化財指定。
  • のち同館を出る。

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