上田宗箇
上田重安(うえだ しげやす)
安土桃山時代の武将、大名
通称 左太郎、主水正
従五位下、主水正
号 竹隠
法名 宗箇
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概要
- 幾度か改名している。小笠原重安 → 上田重安 → 豊臣重安 → 宗箇(号)→ 上田重安
- 数々の戦で一番槍の武功を立てた歴戦の武将でもあり、初め丹羽長秀に、ついで秀吉、浅野幸長らに仕えた。
生涯
- 永禄6年(1563年)、尾張愛知郡に丹羽長秀の家臣・上田重元の子として生まれた。幼名は亀丸、長じて佐太郎。
上田氏は、信州上田が源流と言い、小笠原氏庶流を称している。上田彌右衛門重氏──上田甚左衛門重光(重元)─┬上田清左衛門重賢──上田重道──上田林友 │ (庄左衛門重光) 十三郎 │ 伊織 └上田主水重安 (丹羽家譜伝 家臣伝)
丹羽長秀家臣
- 元服後は長秀の家臣として各地を転戦し、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後の一連の騒乱では明智光秀への関与を疑われた津田信澄の首を挙げる。
- 翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの後に長秀が若狭に加えて越前・加賀二郡123万石を領すると、重安も越前国に1万石を与えられて大名となる。
一 壹万石 上田主水重安
上田甚左衛門二男也。自幼少長重ニ仕フ、童名を佐太郎ト云。長秀織田七兵衛信澄与同大坂城代トナル、明智信長ヲ殺ス兵ヲ欲、発森口ニ到、音ヲ聞城ニ還、織田信孝計、信澄ハ明智カ聟也、急キ戮之可守城ヲ以即月信澄居処千貫櫓ヲ攻ム重安一番ニ馳信澄カ首ヲ捕ル、長秀感之一方ノ将トナス長重除国ノ時属太閤為入道ト宗故ト号ス
嫡子主殿重秀ハ
台徳大相国ニ仕フ五千石ヲ賜フ、二男備前守重政ハ浅野家ニ仕フ其子主水重次同家ノ重臣ナリ一万四千医師賜ル津田信澄は織田信行(信長弟)の嫡男。父は弘治3年(1557年)に暗殺されるが、子らは許されている。のち浅井氏旧臣磯野員昌の養嗣子となり、越前一向一揆征伐などに従軍するが、のち員昌が高野山に出奔すると信忠配下に組み込まれている。信長の命を受け明智光秀の娘と結婚。連枝衆・即金として信長に近侍する傍ら、石山本願寺攻め、荒木村重討伐など各地を転戦する。本能寺の変の前には、神戸信孝を総大将とする長宗我部攻めに丹羽長秀とともに副将として付けられる。四国に渡海する準備に入っていたが、同時に上洛していた家康を設定する役目を丹羽長秀とともに命じられている。変後、光秀とその娘婿である津田信澄の共謀であるという噂が流れ、疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀により攻撃を受け討ち取られた。
秀吉家臣
- 丹羽長秀の子・長重が減封されると、天正13年(1585年)上田重安は秀吉の家臣となる。
この時、おなじく長重重臣であった長束正家や溝口秀勝、村上頼勝らも同様に召し上げとなっている。
- 天正15年(1587年)の九州平定、同18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)には朝鮮出兵に従軍している
- 杉原家次の娘で、秀吉の正室寧々(高台院)の従姉妹にあたる”とく”を正室に迎える。
- 文禄3年7月29日(1594年9月13日)に豊臣姓を賜り、従五位下・主水正に叙任される
- 侍臣として側近くに仕え、千利休の茶を学ぶ機会も得る。すでに天正18年(1590年)霜月6日には、利休茶会に上田佐太郎の名で登場している。また利休没後は古田織部(重然)と親交を深め茶道を学んでいる。
- 慶長4年(1599年)、宗箇は大徳寺111世の春屋宗園から「宗箇」の法諱と、「宗箇」の道号を授かっている。
竹隠
城南有一老人 法諱曰宗箇、道称曰竹隠
予入室之徒也、不獲峻拒、拙偈係下、解其義云
栽碧琅玕勝謂川 斯中日日絶塵縁 山王
何事出林下 只合終身成七賢
慶長四己亥歳仲夏下浣
三玄老拙春屋叟書之
- 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは西軍に属して丹羽長重の援軍に赴くが、その途上で落城の報せを聞くと兵を返している。戦後、領地を没収されて摂津国に流遇し、剃髪した。
蜂須賀家臣
- その後、慶長7年(1602年)に蜂須賀家政に強く請われてその客将となり、阿波国徳島に住んだ。この間に家政の依頼で徳島城表御殿の千秋閣庭園を作庭している。
浅野家臣
- 慶長10年(1605年)、姻戚関係にあった紀州藩主・浅野幸長に招かれて1万石を与えられている。また徳川家康の許しも得て、還俗している。
重安の妻は、秀吉の妻・高台院の従弟である杉原長房の娘で、(幸長の父である)浅野長政と(幸長の子)浅野長晟はそれぞれ杉原長房の娘を養女にしていた。┌上田重秀 上田重安 ├上田重政 ├───┴上田可勝 ┌─杉原長房──とく │ ┌─木下勝俊(長嘯子) 杉原家利──┬─杉原家次───┤ ├─木下利房(足守藩2代藩主) │ └─おあこ ├─木下延俊(豊後日出藩初代藩主) ├─朝日殿こひ ├────┴─小早川秀秋(秀俊) │ ├─────┬─木下家定(足守藩初代藩主) │ 杉原定利 ├─────────やや └─七曲殿ふく └─ねね(北政所) ├───┬浅野幸長(初代和歌山藩主) ┝━━━━━━━━│━━━━━━浅野長政 ├浅野長晟(2代和歌山藩主) ┌浅野長勝 │ ├浅野長重(笠間藩主) └姉──浅野長政 │ ├豊姫(杉原長房室) 木下弥右衛門 │ └智相院(松平定綱室) ├────┬───────────豊臣秀吉 なか └─日秀 ┌─豊臣秀次(関白) │ ├────────┼─豊臣秀勝 │ 三好吉房 │ ├───豊臣完子(九条幸家室) │ │ お江(のち徳川秀忠室) │ └─豊臣秀保(豊臣秀長養子) ├────────────────豊臣秀長 竹阿弥
- 大坂の陣にも徳川方として出陣し、夏の陣では泉州樫井での戦いで大坂方の塙直之(塙団右衛門)の首級を挙げるなど戦功を立て、将軍徳川秀忠及び大御所家康から激賞されている。
- 元和5年(1619年)、浅野氏が和歌山藩から安芸広島藩に移封されると重安は佐伯郡小方村(現大竹市小方)に1万7,000石を与えられ、江戸にも滞在したが国許にも下っている。
- 慶安3年(1650年)5月30日、88歳で没した。
- 法名宗箇。
逸話
武将として
- 茶人でありながら勇猛な武将であり、特に一番槍にかける思いは並大抵のものではなかった。大坂の陣で塙直之の首級を挙げた際には、他の浅野家臣・亀田大隅とどちらが一番槍かで言い争いになり、藩主・浅野長晟はいずれにも一番槍を認めなかった。すると宗箇はこれに納得せず家中を離れて堺へと移り、さらには幕府へ訴え出て遂には幕府が仲介することで長晟と和解するという事態にまで発展したという。
一番槍を争った亀田大隅とは亀田高綱のこと。溝口半左衛門の子で、はじめ柴田勝豊(勝家の甥で養子)に仕えた。通称は半之丞、権兵衛。のち柴田家を追われて姓を亀田と改めて浅野長政に仕えている。小田原の役、文禄・慶長の役、関ケ原の戦に参陣して功をあげ、7千石を与えられ家老となっている。大坂の役でも功をあげるが、上田重安と論功で争いとなり、結果亀田は浅野家を去っている。堺、のち高野山に隠棲し、「亀田大隅一代働覚」「泉州樫井表合戦次第覚書」を著した。→ 国立国会図書館デジタルコレクション - 検索結果
- 数々の戦功により西軍に就いた罪を許された重安は徳川将軍家より出仕を促されたが、断る代わりに嫡男・重秀を徳川家に出仕させている。
茶人・作庭家として
- 大坂の陣で急迫する敵を竹藪で待ち受けていたとき、美竹を見つけた宗箇は小刀で竹藪の竹を切って茶杓を削り始めてしまう。あまりに熱心に削っていたため、敵が怪しんで逃げたという逸話が残る。このときに作った茶杓が「敵がくれ」であるという(敵隠れの茶杓)。
- 紀州和歌山で浅野家に仕えている間、和歌山城西の丸庭園、名古屋城二の丸庭園、粉河寺庭園を作庭している。
粉河寺(こかわでら)は和歌山県紀の川市の寺院。天台宗系の粉河観音宗総本山で、西国三十三所の第3番札所。国宝絵巻の「粉河寺縁起絵巻」が有名で、草創の縁起もこの絵巻により知られている。上田宗箇によると伝わる粉河寺庭園は国の名勝。
- さらに移封後の広島では、浅野長晟から命じられ藩主別邸の泉水館(現、縮景園)を作庭している。広島城本丸、泉水館、上田家邸の草庵「和風堂」の3ヶ所から望める借景として三滝山を選び山頂に大きな赤松を植えた。その後、三滝山は「宗箇山」とも呼ばれるようになった。
- 大徳寺111世の春屋宗園から道号竹隠を授かっている。
系譜
長男:上田重秀
- 長男・上田重秀は、近江野洲郡に知行を与えられ服部村に服部陣屋(服部城)を構えた。子孫は代々相続し、上級旗本として江戸幕府に仕えた。
次男:上田重政
- 次男・上田重政は、広島藩浅野家の家老職を相続し、上田家は藩士として続いた。
- 茶道の上田宗箇流はこの重政が継承し、以後現代の16代まで受け継がれている。なお家元自ら門下を指導することはなく、野村休夢に始まる野村家と、中村知元に始まる中村家の両家が茶道預師範を務めた。
三男:上田可勝
- 細川氏に仕えたという。
甥:上田重道
- 兄・清左衛門重賢(庄左衛門重光)の子・上田重道(十三郎、伊織)は、のち二本松藩丹羽家に仕えた。
- ※上田重道は重光の子で、重元の孫という。上田宗箇(上田重安)は重元の子なので、兄弟の子つまり甥。丹羽家に仕えたという。
重道始め十三郎と申し父と倶に京師に住しけるか父の入道空敷なりし後伯父なる主水正重安に養れ慶長十九年再 傑俊公に仕奉り元和七年新に所領を賜ふ二百石同八年所領加へ賜り百石合三百石寛永十一年 将軍家上洛せさせ給ふ時 公の御供し同十八年九月十四日年三十七歳にて死しぬ。重道公の仰に依て大谷元秀与兵衛か女を娵り二男一女を設く
大谷元秀(おおや)は丹羽氏の家臣。藤原南家乙麻呂流二階堂氏・二階堂行通の子・藤原行信が尾張丹羽郡大谷を領して「大谷(おおや)」氏を名乗ったという。父・大谷吉秀は「鬼弥兵衛」と呼ばれた。元秀自身も父に劣らず勇猛で「鬼弥兵衛と呼ばれた父に劣らず」と武勇を称された。丹羽長重は関ケ原ののち改易されるが長重に付き従い、常陸古渡1万石で大名に復した際、元秀は1千石を拝領した。常陸江戸崎を加増されて2万石となった際に元秀に1千石を加増しようとするが、「私はもう年老いて役に立ちません。この所領で良き士を招いて下さい」(「此時元秀千石を加へ賜ふ然るに元秀堅く辞して不受去りし大坂御陣にも小人数にて御戦功も少なかりき此所領を以能き士を招き給ふへしと申ける 公御感有てさらハ初稿百石賜ふへしと被仰下嫡男左馬介にも二百石賜ひける」)と言って固辞したという。元和8年(1622年)江戸藩邸で没、享年69。
「富山の役」では、敵将・佐々隼人を討ち取る功を上げており、戦闘中に佐々隼人の傍から奪った槍を「笹切」と名づけて愛用した(友成の作という)。また大坂夏の陣でも功名を挙げ、主君長重が家康・秀忠より拝領していた和泉守兼定を与えられる。たらたらたらりとよく切れたことから三番叟の翁の「とうとうたらり」からの連想で「翁」と呼ばれたという。「此刀翁と云。関和泉守か作也。翁と名付しハ 傑俊公或時二つ胴を為させ給ふに水を切よりもたやすく切けれハ散薬三番叟の曲詞たら/\たらりの詞を取りて名付給ひしなりと申す。此刀今に大谷の家の重宝たり。」
- ※上田重道は重光の子で、重元の孫という。上田宗箇(上田重安)は重元の子なので、兄弟の子つまり甥。丹羽家に仕えたという。
- 子に林友(清左衛門)、清右衛門、女子
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