七支刀
七支刀(しちしとう)
七枝刀(ななつさやのたち)
金象嵌表銘 泰□(和)四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□(生)辟百兵供供侯王□□□□作
金象嵌裏銘 先世以来未有此刀百済□(王)世□(子)奇生聖音故爲倭王旨造□(伝)□(不)□世
74.8cm
国宝
石上神宮所蔵(奈良県天理市)
- 「しちしとう」とも呼ばれるが、所蔵する石上神宮では「ななつさやのたち」と伝える。
- 金象嵌の銘には欠落部分が多く、その解釈については諸説ある。
- 全長75cm(刃長65.6cm)で、左右交互に3本ずつの枝状の両刃が出ており、中央先端の刃とともに7本になる。
- 全長二尺四寸七分五厘、茎長三寸一分
- 本体の厚みは2~3ミリ
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来歴
- 明治以前の社伝では「六叉の鉾(ろくしゃのほこ、ろくさのほこ)」(六支鉾あるいは六叉鉾)とも呼ばれていたが、現在では刀身に記された銘文により「七支刀」と称している。
- 江戸中期の契沖は「万葉代匠記」に次のように記している。
七支刀ト云ハ、本一ツニテ末ノ七ツニ分タレタル刀ナルヲ七ツノ鞘ニ収ムル故ニナヽツサヤノタチト云カ
- 石上神宮の拝殿の奥に瑞垣に囲まれた禁足地があり、明治7年(1874年)2月に大宮司・菅政友が官許を得た上で、8月20日~22日にかけて発掘した。すると、地下1尺のところに一間四方の石積みがあり、その下から布都御魂と思しき神剣一口と多くの玉類、剣、鉾、銅鏡などが出土した。
菅政友(かん まさすけ)は文政7年(1824年)水戸の生まれ。大日本史の編纂に関わる。明治維新の後は帝国大学書記となった。明治23年(1890年)水戸に退隠。明治6年(1873年)~明治10年(1877年)まで石上神宮の大宮司を務めている。明治30年(1897年)74歳で没。
- 七支刀はその出土品の一つであり、古くは「六叉鉾」と呼ばれていた。
- 錆びていたが、菅政友が小刀でサビを落とした所、剣の両面に計61文字の金象嵌の銘文が刻まれているのが分かった。
- それによると、東晋の太和4年(西暦369年)に、百済で造られたもので、神功皇后の時代に、日月護身剣、七枝剣、丙毛槐林剣等が献上されたという。
神功皇后五十二年、秋九月丁卯朔丙子、久氐百済人等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口、七子鏡一面、及種々重寶
(日本書紀)
- この剣は、そのうちの七枝剣ではないかといわれている。
- この後、「六叉鉾」は「七支刀」と呼ばれることとなった。
- 昭和28年(1953年)に国宝指定
銘文について
- 従来X線写真しかなかったため、表裏の銘文が重なって文字が読み取りづらかった。しかし2025年の特別展「超 国宝―祈りのかがやき―」に向けてX線CT(コンピューター断層撮影)調査が行われた。その結果、サビで隠れていた部分が判明したほか、象眼が脱落した「のぎへん」の痕跡がより明確に見えたことから、「泰和」の可能性がさらに高まったという。
- 従来
金象嵌表銘 泰□(和)四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□(生)辟百兵供供侯王□□□□作
金象嵌裏銘 先世以来未有此刀百済□(王)世□(子)奇生聖音故爲倭王旨造□(伝)□(不)□世 - 今回読み取りの結果判明したもの
金象嵌表銘 泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□(生)辟百兵供供侯王□□□□作
金象嵌裏銘 先世以来未有此刀百済□(王)世□(子)奇生聖音故爲倭王旨造□(伝)□(不)□世
- 従来
- 国宝・七支刀、初のCT調査 不鮮明だった文字の一部がくっきりと(朝日新聞) - Yahoo!ニュース
- 「泰和」は正しくは「太和」(東晋の廃帝の時代)であり、太和四年は西暦369年。
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