蜂須賀虎徹

蜂須賀虎徹(はちすかこてつ)  


銘 長曽弥興里入道虎徹
金象嵌 寛文五年乙巳霜月十一日 弐ツ胴截断 山野加右衛門永久(花押)
長二尺二寸八分(69.1cm)
個人蔵

  • 長曽祢興里虎徹の作。
  • 寛文4年(1664年)8月から使用されるいわゆる「角虎」(ハコ虎)の九字銘。
  • 庵宗、表裏に丸留めの棒樋。生ぶ中心、目釘孔1個
  • 裏には金象嵌で截断銘が入り、作られて間もないころとみられる寛文5年(1665年)の試し切りにおいて二つ胴を斬って落としたことを示す。
    山野加右衛門永久は、著名な試刀家のひとりで、多くの截断銘に名を残す。

由来  

  • 蜂須賀家伝来にちなむ。

来歴  

  • 阿波徳島藩主蜂須賀家に伝来した。
  • 蜂須賀家は、高名な蜂須賀小六(正勝)が秀吉の股肱の臣であり、秀吉の出世とともに立身し、天正13年(1585年)の四国征伐の後に阿波国を与えられた。しかし正勝は翌天正14年(1586年)には病に伏せるようになり、阿波は嫡男の蜂須賀家政が初代国主として入国している。正勝は同年5月に大坂で病没、享年61。
  • 嫡男の家政は徳島城を築城するが、この完成記念に城下に踊りの触れを出したことが阿波踊りの発祥ともいう。
  • 秀吉亡き後、蜂須賀家政は武断派として福島正則や加藤清正、浅野幸長らと行動をともにするようになり、嫡子至鎮の正室には、徳川家康の養女万姫(小笠原秀政の娘、敬台院)を迎えている。
    万姫の母は登久姫(松平信康の娘、家康の孫)で、小倉藩初代藩主の小笠原忠真らの同母姉にあたる人物。万姫と至鎮の子である2代藩主忠英の正室にも小笠原忠脩の娘(齢昭院、忠英にとって従妹)を迎えており、さらに齢昭院の子である3代藩主光隆にも小笠原長次の娘金姫を迎えている。小笠原家と蜂須賀家の縁戚関係は濃い。
  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、蜂須賀家政は家臣を大坂城に派遣しながらも自身は剃髪の上で高野山に登っている。一方で嫡子至鎮は東軍として参加し、戦後旧領を安堵されるとともに父より家督を譲られている。
  • 大坂の役においては、蜂須賀至鎮は2代将軍徳川秀忠より7つもの感状を受ける功績を上げ、これにより淡路一国8万1千石を加え25万7千石を領する大封を得た。
  • さらに阿波徳島の藍商人をはじめとする運上銀などにより実入りが多く実石高は40万石を超えたとされ、蜂須賀侯爵家は、明治の叙爵後も紀州徳川家・水戸徳川家と並ぶ屈指の富豪華族として知られた。
  • 本刀「蜂須賀虎徹」は昭和の時代まで蜂須賀家に伝来する。
  • 蜂須賀侯爵家でも昭和8年(1933年)10月に売立を行っているが、そこには本刀は出品されていない。同家伝来品の名物では「蜂須賀正恒」が昭和10年(1935年)に長尾よねの手に渡っており、おそらく同じ頃に手放したものと見える。
    当時の当主は蜂須賀正氏(まさうじ)氏。探検家、鳥類学者で絶滅鳥ドードー研究の権威として知られた。ウォルター・ロスチャイルドと親交を結び、さらには探検隊を結成してアイスランドやモロッコ、アルジェリア、エジプト、コンゴ、南米、東南アジアなどを踏破している。後半生は様々な醜聞とゴシップにまみれ、第二次大戦の終戦直前に爵位を返上している。現在、港区三田にある駐日オーストラリア大使館は、蜂須賀侯爵家から1952年(昭和27年)に売却された屋敷跡に建てられたものである。
     昭和8年の売立時に出品されたものでは、旧国宝 唐隋吉家刀1万園、旧国宝 正恒刀1万園などがある。
  • 現存、個人蔵

関連項目