浮股

浮股信長(うきもものぶなが)  


加州信長作
二尺八分半

  • 浪股信長(なみもも)、九つ胴とも
  • 加州信長作。
    刀工加州信長は刀工安信の子。加賀松任に住し、応永年間(1394~1427年)に作刀した。子の信長は応仁年間(1467~1469年)と見られ、野々市住。

「浮股」の由来  

  • 戦国末期に伊勢の浜辺で囚人を試し斬りした際、刀を振り下ろそうとした瞬間に囚人が前のめりに突っ伏した。刀は向きを変えて首を打ち落としたが、囚人はむくっと起き上がり目の前の海に飛び込んだ。太刀取りもそれを追って海に飛び込み、海に浮いている囚人の両股を斬り落とした。そのため、浮股、または浪股と呼んだ。
  • これとは別に、胴を九つ重ねて試し切りを行ったが、それでも切れ味は変わらなかったために「九つ胴」とも呼んだという。

来歴  

入手  

  • 細川忠興が14・5歳のころにこれを入手し、勝龍寺城においてこの刀で胴を斬り落とした。斬れ味に驚き、その後秘蔵したという。

一色義定殺害  

  • その後「浮股」は弟の興元に与えていたが、妹婿であった一色義定(義有)を宮津城にて殺害した時に忠興はこれを取り戻し、自ら義定を斬っている。
  • 忠興は宮津城に一色義定を呼び出すと、小姓の中島甚之允に「浮股」を持たせておき、忠興と義定が席につくとともに甚之允が浮股を忠興の傍に置いた。しかし抜き打ちにするには位置が悪かったため、近臣の米田宗堅が料理を運ぶ際にわざと袴を引っ掛け、それを直すふりをして抜き打ちにいい位置に戻した。
  • その後、一色義定が盃をいただくところを忠興が抜き打ちにし、肩先から脇腹にかけて斬りつけると義定は脇差を抜きかけながら二つに割れたという。
    この後日譚があり、その際に使われた刀が「希首座」である。

関白秀次  

  • その斬れ味が世の噂に上ると、関白豊臣秀次が譲渡するよう申し入れてきた。
  • 忠興がこれを断ると、意地になった秀次は「浮股」の寸法などを聞き出した上で加州信長作の同じような刀を探しださせ、居並ぶ大名の前において試し斬りを行わせた。
  • しかし大骨も斬れず、秀次は恥をかいてしまう。
  • 気の毒に感じた忠興はいっそ献上するかと一度は考えるが、大名たちがいっせいに忠興の顔を見たため、まるで催促されているように感じた忠興は意固地になりついに献上しなかった。

細川家伝来  

  • 忠興は、嗣子細川忠利が「浮股」を所望するも譲らなかった。
  • しかし寛永11年(1634年)の春、嫡孫の細川光尚が烏丸中納言光賢の娘ややとの婚儀が整った際に、この「浮股」を光尚に与えている。そのとき忠興は「これで余も、もう男でなくなった」と落涙したという。
    烏丸中納言光賢は、細川幽斎の古今伝授の逸話で「古今伝授の太刀」を贈られた烏丸光広の嫡男に当たる人物。

信長拵  

  • この加州信長作「浮股」は三斎忠興のお気に入りの一刀であり、忠興は数々の戦場でこの「浮股」を愛用し、同家では「御家刀」と呼ばれていたという。
  • 忠興は本刀に、のちに「信長拵」(いわゆる肥後拵のひとつ)と呼ばれる独特の拵えを附していた。
  • この拵えも同様に「御家拵」と呼ばれ古来珍重されており、明治維新後に堀部直臣が模造を試みている。堀部は尋常の出来では納得せず、十数回も巻き直しをさせたものが現存する。この信長拵写しには、現在重要文化財の備前長船祐定作の刀が収まっている。
銘「備前国長船与三左衛門尉祐定/為栗山与九郎作之/永正十八年二月吉日」昭和33年2月8日重要文化財指定。個人蔵

堀部直臣の祖は赤穂浪士の堀部安兵衛である。安兵衛は熊本藩に預けられそこで厚く遇された。その死後、堀部言真が家督を継ぎ、子孫は熊本藩士となった。