加州清光(刀工)


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 加州清光(かしゅうきよみつ)

江戸初期加賀(加州)の刀工
同名数代あり

  • 藤嶋友重の後裔を称する。
  • 6代清光が「非人清光」として高名。
  • 新撰組一番隊組長の沖田総司が池田屋事件の際に佩用したと伝わる。
  • 新選組隊士で人斬りの異名で呼ばれた大石鍬次郎も加州清光の脇差一尺三寸を差したという。刀は大和守安定二尺五寸。
  • また東條英機(陸軍大臣、第40代内閣総理大臣)も所有していたが、戦後東條かつ子婦人の添え書き付きで売りに出されたという。二字銘「清光」。長兵衛尉清光とされ、6代かと思われる。
  • 桂小五郎(木戸孝允)が所持したのは、加州清光ではなく備前長船清光。「長船派>清光の項を参照
Table of Contents

 初代清光

  • 初代は「小次郎」といい泉村(現在の金沢市泉)に住んだ。
  • 宝徳3年(1450年)没。

    清光の末裔藤江氏の所藏する前田利長自筆の文書に據れば、當時清光の一派を指していづみかぢといへり。思ふに清光の初世が石川郡泉村の地に住したるが故にこの名ありしものにして、その富山に移壇せるものを『と山のいづみかぢ』とすら呼べるを見る。

  • 年紀銘は「明応(1492年~1501年)」から。
  • 享保五年由緒書(7代清光による)

    就御尋申上候。
           藤島友重せがれ
              行 光
           行光せがれ
    一、高祖父之父    清光小次郎
    此者より代々清光与銘切申候。當御國にて泉野に居住仕候に付、泉小次郎与申候。病死仕年號覺無御座候。

    • つまり、何代目かの藤嶋友重の子に加州行光があり、その子が清光初代の小次郎であるとする。

 2代清光

  • 作助、泉住
  • 永正3年(1506年)没
  • 享保五年由緒書(7代清光による)

    泉小次郎せがれ
    一、高祖父     清光作助
    病死仕候年號覺無御座候。

 3代清光

  • 七右衛門、作助
  • 天文(1532年~)弘治(~1558年)頃の人
  • 享保五年由緒書に記載なし。2代と混同したものか。

 4代清光

  • 七右衛門、吉右衛門、越中守山住
  • 「守山清光」
  • 天正頃(1573年から1592年)の人
  • 天正14年に前田利長が松任から守山に移ったのに従ったものとされる。
  • 享保五年由緒書(7代清光による)

    一、曽祖父     清光七右衛門
    此者越中富山に罷在候節、瑞龍院様御長柄御鑓二本打上申候。其砌御書致頂戴候。其後高岡に而御腰物大小二十腰被爲仰付候刻、御書頂戴仕候。數十年以前病死仕候。

    • 富山にて瑞龍院様(前田利長)の長柄槍、のち高岡にて大小腰物(刀)を作ったと記す。

 5代清光

  • 次郎九郎、金沢住
  • 寛永頃(1624年から1645年)の人
  • 弟に、興兵衛清光(富山住)、喜兵衛清光(越中佐賀野住)、彫光(加州住)あり
  • 享保五年由緒書(7代清光による)

    一、祖父     清光次郎九郎
    此者承応三年瑞龍院様御掛物太刀、従微妙院様被爲仰付候刻、右二通之御書上之申候處、表具被爲仰付箱共に拜領仕所持候。其後微妙院様に御脇指上之申候處、御印一通頂戴仕候。病死仕候年號覺無御座候。

    • 承応3年(1654年)に瑞龍院様(前田利長)の掛物太刀、ついで微妙院様(前田利常)の命により拵え箱ともに造り、二通の書状を拝領したという。
銘「越中国新川郡己亥富山住清光刀生年五十才寛文元年二月吉日」富山市指定文化財。寛文元年(1661年)に50歳であれば、慶長16年生まれとなる。年代的に、5代あるいは6代清光と思われる。

 6代清光(非人清光)

  • 六代目「清光」
  • 長兵衛、笠舞住
  • 「加州金沢住長兵衛藤原清光」
  • 「清」のつくりを「十二・月」と分解して切るため「十二月清光」とも呼ばれる。
  • 6代清光は非人小屋に入所して鍛刀を行い「非人清光(乞食清光)」と呼ばれ高名。

    清光系中に非人清光と稱せらるゝものありて、その名最も世に喧傳せらる。

  • 享保五年由緒書(7代清光による)

    一、父     清光長兵衛
    御道具度々被爲仰付相勤申候。貞享四年に病死仕候。
    右私先祖由緒如此御座候。私儀度々打物御用被爲仰付相勤申候。泉小次郎以来代々清光与打来申候。近年病身に罷成、打物細工難仕候。以上。
     享保五年正月二十六日  清光長右衛門(7代清光
      町奉行所

 「非人清光」

  • 金沢藩では寛文8~9年(1668~9年)にかけて加賀・越中で発生した風水害により飢饉が発生した。この状況を受けて4代藩主前田綱紀は、寛文10年(1670年)に飢餓難民救済を目的とした「非人小屋(窮民収容所)」を設置、かねてより構想していた授産施設をも併設して藩民救済を行う。
  • 鍛冶刀工も同じで、鍛治町に住んでいた六代長兵衛清光も生活に窮し延寶年間に非人小屋に住むようになった。

    刀鍛冶清光長兵衞飢渴に及び、願に付先年非人小屋入に相成、小屋内にて長兵衞父子三人細工仕云々。[貞享四年十一月非人小屋裁許よりの上申書]

    非人小屋に罷在清光長右衞門幷せがれ清光長兵衞[享保五年正月鍛冶取調]

    ただしこの「非人小屋」の収容者はいわゆる非人身分を対象者としておらず、当時金沢に滞留していた困窮農民または町民を指している。非人小屋に入所したために非人と呼称されるが、非人身分出身者であったわけではない。

  • 清光は加賀藩主より腕を認められ、「清光」の名と、前田家由来の「梅鉢」家紋の使用を許されたという。

    又清光系中に非人清光と稱せらるゝものありて、その名最も世に喧傳せらる。
    而してその非人小屋に收容せられたりといふ清光も、亦決して一人にあらず。

    その初は寛文末年若しくは延寶初年に於いて産を失ひたる長兵衞清光がこゝに收容せられたるに初りしなるべく、貞享四年十一月非人小屋裁許よりの上申書に、『刀鍛冶清光長兵衞飢渴に及び、願に付先年非人小屋入に相成、小屋内にて長兵衞父子三人細工仕云々。』と見えて、その父子三人といふは長兵衞の外、延寶六年八月津田宇右衞門等より非人小屋裁許に與へたる文書に見ゆる長右衞門並びに弟八兵衞を指すものゝ如く、之に次いで元祿元年三月の文書には長右衞門及びその弟次郎九郎・太郎の收容せられあることを言ひ、享保五年正月鍛冶取調の時には、『非人小屋に罷在清光長右衞門并せがれ清光長兵衞』と見ゆるが故に、世代を以てすれば長兵衞・長右衞門・長兵衞の三代に亙り、尚その一族にも收容せられたる多かりしなり。

    然りといへども特に非人清光と稱せらるゝ佳作は延寶頃と認むべきもの最も多く、その作風は概ね姿良く、地鐡澄み、小杢目・小板目混り能く錬れ、刄文も直刄・丁子亂等ありて、一般凡作の清光に比し遙かに趣を異にするものあり。銘は清光の二字を切るもの多く、極めて稀に笠舞住又は於笠舞と附記することあり。思ふに初の長兵衞清光なるべし。甞て遊就館に陳列せられたる脇差は、長さ一尺八寸許の亂刄にして、表に加州笠舞住清光、裏に延寶九年八月日の銘あり。別に銀象眼を以て表に延寶九年戌二月九日次胴土段拂味上々キリテ松波時右衞門、裏に同月廿七日雁金土段拂上々キリテ同人と鐫せり。

    「長兵衞・長右衞門・長兵衞の三代」とは、6代、7代、8代に相当すると思われる。延寶(延宝)年間は1673年から1681年の間。

  • この頃(貞享元年)加賀藩が作成した刀工の評価では上作とされている。

    當時刀工の階級はその手腕の巧拙に從ひて三等に分かたれたり。即ち貞享元年八月の鍛冶位付調書に據れば、兼若・勝國・高平・吉家・勝家、非人小屋に罷在清光・兼則を上作とし

  • 貞享4年(1687年)に死去する。
    • 「加州笠舞住清光延宝/次胴土段払味上々切手松波時右衛門延宝九年戌二月九日同月二月二十七日雁金土段払味上々切手同人」
    • 「延宝九年八月日」「延宝九年戌二月九日次胴土壇払味上々切手松波時右衛門同月廿七日雁金土壇払味上々同人」一尺七八寸斗有

 7代清光

  • 長右衛門、笠舞住
  • 「加州住藤原清光於笠舞作之」
  • 七代清光も非人小屋入りをしていた。
  • 享保8年(1723年)没

    元來この收容所は、非人小屋と稱せらるといへども、寧ろ貧民小屋といふを適當とし、特種の技能を有するもその産を治むる能はざるが爲、乞丐に墮落する恐あるものをも收容したりしなり。就中その最も有名なりしを刀工長右衞門清光とし、寛文饑饉の後に收容せられて延寳に及び、次いで一たび獨立せしが、元祿元年(1688年)の頃又小屋に入り、その刀劍製作のことに從へり。

  • 享保4年の刀工調査にも名前を確認できる。

    清光 長右衞門(7代清光)
    加州藤島友重より當清光まで、八代家業致二相續一打物仕候處、近年病身に罷成、當時打物難レ仕候。
    清光 [長兵衞 長右衞門せがれ](8代清光)
    父長右衞門より致二傳授一、打物細工仕候。

  • 享保五年由緒書で、初代清光以来の由緒書きを町奉行所に提出している。

 8代清光

  • 長兵衛、笠舞より金沢に復す
  • 宝暦4年(1754年)、64歳で没
  • 8代以降は小立野土取場(現在の金沢大学医学部付近)に住んで刀を鍛えている。

 9代清光

  • 九代清光は藤江清次郎。
  • 金沢住
  • 寛政7年(1795年)、68歳で没

 10代清光

  • 藤江小次郎
  • 金沢住
  • 天保9年(1838年)、71歳で没

 11代清光

  • 藤江助四郎
  • 文政13年36歳で没

 12代清光

  • 藤江清次郎
  • 藩末時代に当国代表的な刀工であったが明治9年56歳で不遇に没した人物である。

    藩政時代最後の清光に清次郎といふものあり。清次郎は新々刀紀に於ける名工にして、亦加州鍛壇の精英なり。
    家傳の説に據れば、清次郎清光は作品の成績によりて銘を三種に區別し、上作は加州金澤住藤江清次郎藤原清光と長銘に切り、中作は加州住藤原清光と銘じ、並作は藤原清光又は單に清光と切れりといへり。

    文久三年清次郎清光の技量拔群なるを賞して、合力銀三百目の外特に百三十目を加賜すといへるにて之を知るべし。

 江戸初期鍛冶の窮乏

  • 清光がなぜ非人小屋に入らざるを得ないほど困窮したのかについて。
  • 元和偃武以降、武用刀の需要は一気になくなり刀工は窮乏を究めるようになった。加賀鍛冶においても生き残りをかけた競争が激しくなり、それに敗れたものが困窮する様子が書かれる。

    太平の世態久しきに亙るにつれ、舊作品の貯藏せられしもの漸く多く、新製の需要次第に減じたるを以て、この難局を打開すべく努力したる結果、人目を惹くが爲新奇を衒ふの必要を生じたるにあらざるか。而して此の鍛壇の競爭に敗れ生活の脅威を感ずるに至れるものに長兵衞清光あり、六藏守種あり。前者は延寶年間に、守種は貞享年間に非人小屋に收容せられて藩の給養を受けたるは周知の事實なり。

  • これに加えて寛文飢饉の発生により、困窮して乞食となった農民町民の中に鍛冶も含まれることになった。
  • 加賀藩は、宝永年間には刀工に対して藩有林の下刈の特許を出している。

    刀工の衰運は寶永に入りて益甚だしく、遂に彼等は藩有山林の下刈を特許せられてその生活の維持を謀るに至りたりき。

  • 享保年間の鍛冶報酬

    享保五年四月の打料等詮議書には、上鍛冶の刀製作料は銀三枚、脇指は銀二枚と定め、(略)この工賃は所用の炭代を含むも、地鐵の原料は藩より交附する慣習にして、刀には鐵二貫目、脇指には一貫八百目を與へたりき。




 沖田総司所持


加州清光作
二尺四寸

  • 加州清光の作ではあるが代数は不明。一般に「非人清光」と呼ばれた6代清光の作であるという。
  • 研師源龍斎俊水が池田屋事件の2日後に隊士の刀を改めたといい、その記録「京都守護職様御預新選組御一等様御刀改控 元冶元年六月七日 京壬生住研師源龍斎俊永記録」が残る。そこでも沖田の刀は「加州住清光」であるとしている。ただし、現在ではこの記録については創作の可能性を指摘されている。




 播磨大掾清光

 初代

  • 加州金沢住
  • 二字銘

 二代

  • 「播磨大掾藤原清光」
  • 非人清光と同一視されるがまったくの別人。

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