雷切


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 雷切(らいきり)

脇指
無銘
号 雷切丸
戸次道雪所用
1尺9寸3分(58.5cm)、反り2.4cm
立花家資料館所蔵

  • 戸次道雪(べっき どうせつ)とは立花道雪(戸次鑑連)のこと。
    一般に「立花道雪」と呼ばれることが多いが、現在の研究によれば道雪自身は立花山城に入った後も立花姓を名乗ったことがないという(宗麟が立花姓を忌み嫌ったためとも言う。立花山城はもと立花鑑載の持城だったが攻め落とされ、戸次鑑連が立花家の名跡を継ぎ城主となった)。
     なお立花氏は大友庶流(南北朝時代に大友貞宗の子の貞載が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称したのに始まる)であり、戸次氏は大神氏流の臼杵氏一族であるという。のち鎌倉時代に戸次氏は大友氏2代大友親秀の次男・利根重秀を養子として迎えた(戸次氏6代)とも言い、その後は大友家の庶子家筆頭として栄えた。
     戸次道雪(立花道雪)は永正10年(1513年)戸次親家(戸次氏19代)の次男として生まれた。幼名は八幡丸で、兄が早世したため嫡男として育てられた。親守ついで親廉と名乗る。大永6年(1526年)父の死に伴い元服して家督を相続し(戸次氏20代)、大友義鑑(宗麟の父)に仕え、偏諱を賜って鑑連に改名した。天文19年(1550年)大友氏の跡継ぎを巡る二階崩れの変では、嫡子・大友義鎮(宗麟)を支持している。永禄5年(1562年)に大友義鎮(宗麟)が剃髪して休庵宗麟と号したのにならって自身も剃髪し、麟伯軒道雪と号した。
  • 代千貫文という延宝年間の折紙がつく。
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 由来

  • はじめこの刀は、柄に鳥の飾りがあったことから「千鳥」と呼ばれた。
  • 道雪が35歳の頃というから天文17年(1548年)ごろのことである。故郷の藤北にて、炎天下の日、道雪は大木の下で涼んで昼寝をしていたという。
    道雪と号するのは永禄5年(1562年)以降だが、ここでは道雪で通す。
  • その時に急な夕立で雷が落ちかかったため、道雪は枕元に立てかけていた千鳥の太刀を抜き合わせて雷を斬り、木の下を飛び退いた。この逸話により「千鳥」は「雷切」と呼ばれるようになったという。

    雷切丸 無銘 壱尺六寸七分半 御脇差
    右ハ道雪様御指也、雷切ト申ス訳ハ、鑑連公(道雪)、未ダ豊後国大野郡藤北之御館ニ被成候節、炎天之頃、大木ノ下ニ御涼所、御シツライ、此所ニ或時被遊御昼寝候節、其処ニ突然落雷有之候、御枕元ニ御立被置候処ノ千鳥ト云フ御太刀ヲ被遊御抜合雷ヲ御切被成早速御立退被成候、夫レヨリ以来御足御疲被成、御出陣ニモ御乗輿ニテ被遊御出候、然共御勇力御勝レ被成タルユヘ常体之者ヨリ御丈夫成御座候、且又此御太刀最前ハ千鳥ト御附被候共、雷御切被成候以後其印御太刀ニ有之故夫ヨリ此御太刀雷切ト改候
    好雪様(2代藩主立花忠茂。在位:1638-1664)御代、大膳様(忠茂六男・立花茂辰。1648-1678)御逝去被成候節、御道具皆御払ニ相成可申之処、此御太刀モ御払相成申之処、矢嶋石見殿御聞付被成、此太刀ハ払杯江差出候物ニ而無之、大切之御重宝ニ而有之候間、御取被成候由
    夫ヨリ矢嶋采女家持伝居申候処、鑑通公(7代藩主立花鑑通。在位:1746-1797)御代、宝暦九年卯之御発駕前、矢嶋周防進上之、但白鞘ニ而差上ル、三原之由承伝之処、同年六月御拭之節、本阿弥熊次郎江見セ申候処、相州物之由申候
    宝暦十辰年十二月、右雷切差上候、為代リ大和守安定御小サ刀被下之、但白鞘、雷切被成候年号不相知、追而吟味之上、書載之事
    (御腰物由来覚)

  • 道雪は、この時の落雷による衝撃で生涯半身不随となった。その後は手輿に乗って出陣し、右手には備前清光の二尺七寸の太刀、左手には小銃をもって指揮したという。
    ただし、御腰物由来覚には「雷切被成候年号不相知、追而吟味之上、書載之事」。つまり雷切と号することとなった年号については(当時は)不詳であり、判明次第追って記述するとのみ書かれている。
  • そして「万一味方の敗色が見えた時には汝ら我を捨てて逃げよ」と下知したため、近習は大将である道雪を敵中に残して退くこともできず、各々必死になって勇戦したため、戦はいつも勝利であったという。
    ただし、永禄年間(1560年ごろ)においても道雪が騎馬武者として敵陣に斬りこんだという記述を見ることができるため、半身不随になったのは更にあとの可能性がある。さらに後の天正年間になると、巷間よく知られるように輿に乗り采配を振るった記録が登場する。

 来歴

  • その後立花宗茂に伝わり、以後柳川藩立花家に伝わった。
    【吉弘家→高橋家→立花家】
    
          吉弘鑑理
            ├───┬吉弘鎮信
         ┌貞善院   ├鎮理(高橋鎮種/高橋紹運)─┬立花宗茂(→立花道雪養子)
         │      └尊寿院           └立花直次(高橋統増/高橋直次)
         │        ├──大友義乗
    大友義鑑─┼義鎮(宗麟)─大友義統
         └晴英(大内義長)
    
    高橋紹運の名で知られる吉弘鑑理の次男は初め吉弘鎮理と名乗るが、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋鎮種(紹運は剃髪後の号)と称した。
     これは高橋鑑種が毛利氏に内通して大友氏に叛いたことに端を発する。その後立花山城主立花鑑載も叛き大友氏と対立するが、尼子氏の侵攻を受けて毛利氏が撤退すると両者は大友氏に滅ぼされる。この後、高橋氏の名跡を継いだのが吉弘鎮理(鎮種、高橋紹運)で、立花氏の名跡を継いだのが戸次鑑連(立花道雪)であった。さらに後、高橋紹運の長男・統虎を道雪が要請して養子にしており、これが立花宗茂である。

     もともと吉弘氏、立花氏、戸次氏らは豊後大友氏の支流(庶家)で、筑後高橋氏だけが大蔵党の支流であった。のち高橋氏は大友氏の配下に属するようになり、大友一族の一万田氏から養子で継いだ高橋鑑種が永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いの後に毛利氏に寝返ったことで筑後高橋氏は断絶の危機を迎えることになる。大友宗麟の命で吉弘氏から跡継ぎを迎えるが、一方で大友氏の支配を良しとしない家臣も居たことから筑後高橋氏は分裂した。
     関ヶ原の戦いでは、道雪の跡を継いだ立花宗茂・高橋家を継いだ高橋統増の兄弟は西軍につき改易されるが、立花宗茂が徳川秀忠に召し抱えられた際に、統増も立花姓に改めている。
  • 2代藩主立花忠茂は、本刀を六男茂辰(大膳)に譲っていた。しかし延宝6年(1678年)3月に六男茂辰が23歳で早世すると、道具類を処分する中にこの脇指も含まれていた。
    上記引用では「好雪様(2代藩主立花忠茂。在位:1638-1664)御代、大膳様(忠茂六男・立花茂辰。1648-1678)御逝去被成候節」と年代が矛盾している。忠茂自身は延宝3年(1675年)に死んでいるため、かなりおかしい。矛盾なく読み下すとすれば、忠茂は六男茂辰へと譲った。その茂辰の死後(当時は3代藩主立花鑑虎の時代)に「御道具皆御払ニ相成可申之処、此御太刀モ御払相成申之処、」になったのだと思われる。
  • それを大組組頭世襲家である矢嶋家を継いでいた矢嶋石見行和(忠茂庶子、茂辰の弟)が重宝であるからと押しとどめ、それ以後は矢嶋采女家に伝わっていた。
    立花忠茂は宗茂の弟高橋直次の子。慶長17年(1612年)に生まれ、誕生と同時に宗茂の養子となる。寛永16年(1639年)父宗茂の致仕により家督を継ぎ、寛文4年(1664年)致仕、四男鑑虎に家督を譲って隠居した。延宝3年(1675年)没。

    矢嶋家は矢嶋俊行の跡を忠茂三男の石見行知(矢嶋茂堅)が継ぎ、さらに忠茂四男の采女虎重が継いだ(これが「矢嶋采女家」を指すと思われる)。その後、矢嶋俊行の甥である重亮が継いでいる。矢嶋勘兵衛秀行の娘八千子(瑞松院)は立花宗茂の継室となっており、さらに立花帯刀家の3代茂高の娘玉蘭が采女虎重に嫁いでいる。
    高橋紹運─┬立花宗茂━━忠茂
         └高橋直次─┬立花種次【筑後三池藩】
               ├立花種吉【旗本立花甲斐守家】
               ├立花政俊【御両家・立花内膳家】
               │    【御両家・立花帯刀家】
               └忠茂─┬茂虎─┬茂高─┬茂之──立花玉蘭
                   │   ├茂明 └貞俶─┬貞則
                   │   └任利     ├鑑通
                   │           ├致傳【立花監物家】
                   ├鑑虎──鑑任━━貞俶 ├致真
                   ├茂辰         ├戸次通孝【立花織衛家】
                   ├矢島茂堅       ├山名義徳
                   ├貞晟──清直     ├矢島通経
                   └矢島虎重       └通堅
    
    
    【柳川藩立花家】
    立花宗茂─2代忠茂─3代鑑虎─4代鑑任─5代貞俶─6代貞則─7代鑑通─
    
    【柳川藩 大組組頭矢嶋家】
    矢嶋秀行─┬重成─重知─┬主水俊行━石見行和(忠茂3男)━采女虎重(忠茂4男)━重亮
         └八千姫   └─○──重亮           │
           │                    立花玉蘭
          立花宗茂
    
  • 7代藩主立花鑑通の時、宝暦9年(1759年)に矢嶋周防は、鑑通が江戸へ発つ「発駕前」に本刀を進上、6月の道具払いの際に本阿弥熊次郎に見せた所、相州物という極めになった。翌宝暦10年(1760年)12月藩主鑑通より、「雷切」を献上した代わりとして大和守安定の小さ刀を拝領したという。
    立花鑑通は享保14年(1729年)生まれ、寛政9年(1797年)没。延享3年(1746年)に兄で6代藩主貞則の跡をついで7代藩主となる。寛政9年(1797年)老齢のため隠居し、五男鑑寿に家督を譲った。

    本阿弥熊次郎は、宗家光温の長男光達系の本阿弥光葆か。天明8年(1788年)没。
  • この経緯をまとめると、次のようになる。
    道雪─初代宗茂─2代忠茂─茂辰─矢嶋家─7代立花鑑通─立花家代々
  • 昭和にも立花公爵家にあり、焼けた跡があったという。
  • 本阿弥光遜が拝見しており「刀剣鑑定秘話」にその時の話が載っている。

    その次には雷切丸と云ふ立花家名代の太刀を拝見した。これは御記録が素敵に面白いのでその方を先に書く。(※前掲)
    さて名劍千鳥の太刀、改め雷切丸、如何なる名刀であらうか、恭しく拝見する。二尺そこゝで一度火災に逢つてゐる形跡もあり、御研も非常に古く善悪さへ識別するのに困難であるが、悪からう筈がないものであらう。
    (刀剣鑑定秘話 柳河立花侯爵家御蔵刀拝觀の記)

  • 現在は立花家資料館所蔵。


 竹俣兼光

  • 竹俣兼光もまた「雷切」と呼ばれることがある。

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