闕所
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闕所(けっしょ)
闕所または欠所
跡継ぎがいないまま病死した者の土地など、死亡・逃亡・追放・財産没収などの刑罰によって本来の所有者や権利者を欠く状態になった土地や所領をいう
- 江戸時代には死刑と追放刑に処せられた者を対象に行われ、大目付の下に闕所によって接収した物品を売却するための闕所物奉行という役職も設置された。
「闕」とは「欠」のこと。欠けている状態、欠けている箇所などを示す。
闕所と似た言葉で「闕字」があり、これは中世・近世の文書中に貴人の名前がでてきた場合に一字空白を開けて敬意を表す習わしのことを指す。
大名
- 大名に対しても闕所が行われている。
- 大久保長安や本多正純などが闕所とされ、その財産は「闕所道具」として「闕所之刀脇差帳」に記載され、のちに駿府御分物帳として分配された。享保名物「上野貞宗」もその一つである。
豪商
- 大坂の豪商淀屋三郎右衛門は、宝永2年(1705年)「商人に似合わぬ驕奢」との理由で闕所となった。この時没収された刀には、正宗、義弘、左文字の刀が12腰、粟田口、頼光、法光、法長、宗近、国光、国利などが177腰もあったという。折紙のついた刀が720腰、五両から百両までの刀は数えきれなかったともいう。
淀屋(よどや)
- 江戸時代の大坂の豪商。
- 淀屋常安
- 全国の米相場の基準となる米市を設立し大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。
- 米以外にも手広く商売を行い莫大な財産を築くが、武家社会に永享が及び始めると幕府により闕所となり、財産は没収された。
没収財産は、上記の刀剣類以外では金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録がある。また諸大名に貸し付けていた金額は、膨大な金利を含め現在の価値で100兆円に上ったという。
- 闕所に先立って伯耆久米郡倉吉に暖簾分けした店を開き、のちの時代に再び大坂の地で再興した。
- 幕末になると討幕運動を支援し、ほとんどの財産を朝廷に献上し幕を閉じた。
- 淀屋が開拓した大坂中之島には、かつて初代当主の名を冠した常安町と常安裏町があった。また中之島にかかる淀屋橋や常安橋にその名を残す。
初代:岡本三郎右衛門常安(じょうあん)
- 伏見城の造営や淀川の堤防改修において工事の采配を行い、高い土木技術を発揮。その後大坂の十三人町に移り「淀屋」を屋号として材木商を営む。慶長の末(1609~1614年)には大坂中之島の開拓を行う。
- 常安請地として中之島の開拓を手掛け、大坂三郷(北組・南組・天満組)のうち北組の惣年寄を担った。
- 大坂の役では徳川方につき、冬の陣では茶臼山と岡山の陣屋を徳川家康と徳川秀忠に提供し、徳川方の兵には食料も提供した。その功績が家康に認められ、褒美として山城国八幡の山林田地300石の土地を与えられ、名字帯刀が許された。
- 大坂夏の陣が終わった後には戦の後始末を願い出、亡くなった兵の供養と大量の武具を処分した事でも利益を得た。
二代:淀屋言當(よどやげんとう)
- 弟、五郎右衛門の子(三代箇斎)で、初代常安の養子となり継ぐ。
- 当時途絶えていた青物市を京橋一丁目の淀屋屋敷で再開する。
- また寛永元年には海部堀川(かいふほりがわ)を開削、海部堀川の屈折点に造った船着場永代浜に干魚を扱う雑喉場(ざこば)市を設立した。
- さらに米価の安定のため米市を設立したことで、大坂三大市場と呼ばれた青物市、雑喉場市、米市を一手に握った。
当時、全国の米の総収量が2700万石余り、自家消費や年貢で消費される分を除くと約500万石が市場取引された。大坂では、その4割にあたる200万石が取引されたという。
米の取引においては、場所をとる現物ではなく売買成立の証拠として手形を受け渡していたが、次第に(現物の売買の証ではなく)直接手形の売買に発展するようになり、これが世界の先物取引の起源とされる。
- また輸入生糸を扱うための糸割符(いとわっぷ)に、大坂商人も加入できるように長崎奉行と掛け合った。寛永9年(1632年)に、糸割符の加入が認められ海外貿易を始める。
!糸割符は、1604年(慶長9年)御用商人茶屋四郎次郎を主導者として京・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせ、その糸割符仲間に輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。1631年(寛永8年)に江戸・大坂を加え5か所となった。 - 寛永15年(1638年)からは加賀藩主前田利常の意向により加賀米の取扱いが本格化した。その大坂への輸送に際して、日本海から関門海峡と瀬戸内海を経由して大坂に至る西廻り航路を北風家の北風彦太郎と共に担い、北前船の先鞭と成った。
- 十三人町の町年寄を務めた。
三代:淀屋箇斎(よどやかさい)
- 五郎右衛門の子
四代:淀屋廣當(よどやこうとう)
- 闕所処分とされる事を予想し、番頭であった牧田仁右衛門に暖簾分けをした。
五代:淀屋廣當(よどやこうとう)
- この廣當のころ、元禄10年(1697年)には中之島対岸(北側)に開拓された堂島新地に設立された堂島米市場に移された。堂島米市場では現物米を扱う正米取引のみが行われ、現物米と交換するための米切手を売買する事は禁じられていた。
- 宝永2年(1705年)淀屋辰五郎の闕所処分を受けたのは、その時期から廣當の時代であったと考えられている。
- 享保初年(1716年)頃より始められた帳合米取引が、享保15年(1730年)8月13日、幕府より公許され世界初の公設先物取引市場堂島米相場会所となった。
物語に登場する淀屋
- 井原西鶴「日本永代蔵」
- 近松門左衛門の浄瑠璃「淀鯉出世滝徳」(よどごいしゅっせのたきのぼり)
- 鳥山石燕の妖怪画集「百器徒然袋」 淀屋辰五郎の逸話をもとにした鉦五郎という妖怪
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