長谷川平蔵


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

 長谷川平蔵(はせがわへいぞう)

江戸時代の旗本
平蔵
諱は宣以(のぶため)
火付盗賊改役

Table of Contents

 概要

  • 池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」で高名な火付盗賊改方。
  • ただし長谷川平蔵は実在の人物で、本名は長谷川宣以(のぶため)、当主代々の名乗りである平蔵が有名。
  • 長谷川家は三方原以来の旗本で、家禄は石高400石だが将軍近習の御書院番組の家として続く。父は火付盗賊改役を経て京都西町奉行を務めた長谷川宣雄。
    長谷川平蔵宣有─平蔵宣雄─平蔵宣以─平蔵宣義─┬平蔵宣茂
                           └平蔵宣昭
    
    なお「鬼平」という渾名は作家池波正太郎の創作で、「あれは私が作ったんです」と語っており、存命当時そう呼ばれたわけではないという。

 小説「鬼平犯科帳」

  • 小説「鬼平犯科帳」は、はじめ雑誌「オール讀物」の昭和42年(1967年)12月号に長谷川平蔵が登場する単発物「浅草・御厩河岸」として掲載され、評判が良かったために次号・昭和43年(1968年)1月号掲載の「唖の十蔵」から「鬼平犯科帳」の題名が付され、巻末を飾る連載作品としてシリーズ化された。

 TVドラマ「鬼平犯科帳」

  • 人気作品となった小説「鬼平犯科帳」は、後にNET系(後のテレビ朝日)とフジテレビ系でドラマ化され、これも人気作品となった。主人公である長谷川平蔵は、当初八代目松本幸四郎(後の初代松本白鸚、1969-1970/1971-1972NETテレビ)が演じ、その後は丹波哲郎(1975年NETテレビ)、萬屋錦之介(1980-1982テレビ朝日)、二代目中村吉右衛門(1989-2016フジテレビ)、十代目松本幸四郎(2024-)が演じてきている。
    【歌舞伎名跡略系図】
    
    九代目市川團十郞━┯十一代市川團十郎──十二代目市川團十郎──十三代目市川團十郎
             │
             ├ニ代尾上松緑
             │              ┌松本起保
     七代松本幸四郎─┴初代松本白鸚        ├松たか子
               ├──┬二代目松本白鸚──┴十代目松本幸四郎──八代目市川染五郎
             ┌正子  │
     初代中村吉右衛門┷━━━━┷ニ代目中村吉右衛門
    
    
    ※名跡は2024年5月時点
    

 長谷川家と火附盗賊改

  • 寛政重脩諸家譜では、下河邊四郎政義の次男・小川次郎政平より三代孫次郎左衛門政宜が大和長谷川に住して長谷川を称したという。長谷川藤九郎正長が義元ののち家康に仕え、三方原で討死したという。その次男宣次から6代孫が平蔵宣雄になる。
    【旗本長谷川家系図】
    
                    大橋與惣兵衛女
                        ├──宜義
    長谷川宣就─┬宜安─┬宜尹━━宜雄──宜以
          │   │     │
          │   └────女子
          │
          ├政重(永倉正武養子)
          └宜有──宜雄
    

 父・平蔵宣雄(のぶお)

  • 鬼平の父の平蔵宣雄も明和8年(1771年)10月17日から明和9年(1772年)10月15日までの1年間火附盗賊改を務めた。明和9年(1772年)2月29日に発生した明和の大火(目黒行人坂の大火)では、犯人である武州熊谷無宿の真秀を捕らえ、6月21日に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処した。

    二月二十九日未ノ刻、目黑行人坂ヨリ出火、南風强ク起リテ、火焔所々ニ吹散シ、忽ニ大火トナリ、白銀麻布西ノ久保ヲ焼拂ヒ、郭内ニ入リテ、和田倉馬場先日比谷ノ城門、評定所、傳奏屋敷、老中少老ノ諸邸、數十ケ所焼失シ、(略)

    三月六日、先手頭長谷川平藏宣雄、中山主馬信將ニ命シテ、盗賊ヲ考察逮捕セシム、(略)

    一、右大火二月廿九日火災附火いたし候もの、御先手長谷川平藏組ニて召捕候節、伺書左之通、
     生國武州兒玉郡熊谷本田村百姓父常右衛門存命罷在、母ハ四五年以前相果申候
                                   武州熊谷無宿
                                   長五郎坊主  眞  秀
                                     辰二十六歳。
    此者儀、大久保四丁目二に組廻りもの召捕、吟味仕候處、

    真秀は願人坊主で、本来は火付け騒ぎに乗じて大円寺に忍び込んで盗みを働く予定で寺の灰小屋に日をつけた所、時悪く南西の強風に煽られて火が回ってしまい、一物も取れないまま逃げ出す羽目になった。あっという間に広まった火災は934か町、大名屋敷169ヶ所、寺社382ヶ所、1万4700人が死亡する(4000人が行方不明)という大惨事へと発展した。この大火事により山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した。江戸では明和九年で「迷惑年」という不名誉な語呂合わせの風説が広まったことから11月16日に「安永」への改元が行われた。

  • この功績が評価され同年安永元年(1772年)10月15日に京都西町奉行に転任。

    十月八日、京町奉行太田播磨守正房、小普請奉行トナル、長谷川平藏之ニ代ル、

  • 同年11月15日に従五位下・備中守に叙任されるも、安永2年(1773年)6月22日、奉行在任中に京都で死去した。享年55。
    徳川実紀
    • 宝暦8年(1758年)9月15日:西城書院番長谷川平藏宣雄小十人頭となる。
    • 明和2年(1765年)4月11日:十人頭長谷川平藏宣雄。
    • 明和7年(1770年)5月6日:(略)長谷川平藏宣雄。(略)を始め。そのほか御家人多く日光山の御供を命ぜらる。
    • 明和8年(1771年)10月17日:先手頭長谷川平藏宣雄盗賊考察を命ぜらる。
    • 安永元年(1772年)3月6日:先手頭長谷川平藏宣雄盗賊考察を命ぜらる。中山主馬信將をもこれに加へらる。
    • 安永元年(1772年)10月15日:先手頭長谷川平藏宣雄京町奉行となり。使番島田弾正政彌先手頭となる。
    • 安永元年(1772年)11月15日:京町奉行長谷川平藏宣雄叙得して備中守と改め赴任の暇賜ふ。

 平蔵宣以(のぶため)

  • いわゆる「鬼平」こと小説の主人公のモデル。
  • 生年は不明。
    父・平蔵宣雄は、従兄弟である宜尹の養子となり宜尹の娘と結婚している。しかし平蔵宣以の母について、寛政重脩諸家譜は「母は某氏」(あるいは家女とも言う)と記す。また初お目見えが明和5年(1768年)23歳時と遅いことから、何らかの事情があったものだとされている。
  • 平蔵宣以は、天明7年(1787年)9月19日老中松平定信により火附盗賊改の当分加役を命じられる。翌天明8年(1788年)4月には加役を免じられた後、同年10月、先手頭1名が通年で兼務する本役の火付盗賊改方加役となった。同役には松平定寅・森山孝盛らが居た。同僚からの平蔵の評判は良くなかったという。
  • 平蔵宣以が名を挙げたのが真刀徳次郎という盗賊の捕物であったとされる。真刀徳次郎は御用提灯を振りかざして強盗等を働いていたが、寛政元年(1789年)に獄門となった。平蔵は、入牢の際に大盗賊がその身なりでは体裁が悪かろうとして着物を整えてやったという。この人情が世に伝わるところとなり評判が高くなったという。

    寛政元酉年閏六月七日
      長谷川平蔵掛
        無宿眞刀徳次郎所々ニ而强盗又ハ御用之趣等を申僞或ハ海賊いたし候 一件
                                                無宿
     松平伊豆守殿御差圖                            眞刀徳次郎
                                                     酉廿八歳
    右之もの儀奥州常陸上総上野下野武州關東筋其外近國在々數百ヶ所忍入又ハ强盗致し道中筋ハ御用と申繪符を建帯刀いたし野袴を着し從ひ候もの共又ハ渡り盗賊を若當ニ仕立召連問屋場ニ而ハ相應之御用之趣を申偽り或ハ御用と書付候挑燈を爲持又ハ蝋燭を燈し寺修験宅百姓家土藏町家入口戸固辭明ヶ押明ケ固辭放し或ハ火縄ニ而錠前之處焼貫脇差を抜持頭取押込家内之者を縛り置聲立候ハゝ可切殺旨を申金銀衣類反物帯脇差等其外品々數不覺盗取又ハ…
    重々不屈至極ニ付町中引廻し之上於武州大宮宿獄門

  • 寛政元年(1789年)、松平定信に人足寄場設置を建言して認められ、寄場建設運営の指揮を執り江戸石川島に収容所を設け、無宿人、刑期を終えた浮浪人などに大工、建具、塗物などの技術を修得させ、その更生をはかった。

    十九日寛政二年二月こたび鐵砲洲向島石川大隅守正勲亭裏に、加役方人足寄場を新建あるにより、松平越中守定信より捕盗加役長谷川平藏宣以に示さるゝ旨あり。こははじめ平藏宣以の建議せし所なり。
    廿六日寛政二年四月けふ人足寄場條約及ひ刑法また教諭の書あり。

    鐵砲洲 加役方人足寄場地所  坪數壹萬六千三拾坪餘
      東南 葭沼。 西北 石川大隅守屋敷。
      東北 葭沼。 西南 佃島、葭沼。

  • 寛政5年(1793年)に定信が失脚したため、平蔵宣以の町奉行になるという夢も潰え、寛政7年(1795年)4月50歳の時に病となった。将軍家斉より瓊玉膏を賜るも同年5月19日死去。
    平蔵宣以の出生日は不明だが、寛政重修諸家譜などでは「公年50で寛政7年5月19日死去」となっており、これから逆算した延享2年(1745年)、あるいは延享元年(1744年)・延享3年(1746年)が出生年とされる。

    菩提寺の戒行寺(東京都新宿区須賀町)に残る霊位簿の記録では5月10日(新暦6月26日)でずれているが、これは10日に死去した直後には喪を発せず、御役御免を願い出て許可を得た後、19日(新暦7月5日)になって喪を発したためである。
    徳川実紀
    • 明和5年(1768年)12月5日:(略)長谷川平藏宣雄が子鐵三郎宣以。(略)を初め。初て見参するもの三十人。
    • 天明4年(1784年)12月8日:西城書院番長谷川平藏宣以同徒して備前守と稱し。赴任のいとまたまふ。
    • 天明6年(1786年)8月26日:西城徒頭長谷川平藏宣以先手頭となる。
    • 天明7年(1787年)9月19日:先手筒頭長谷川平藏宣以捕盜の事命ぜらる。
    • 天明8年(1788年)5月28日:先手弓頭長谷川平藏宣以火賊捕盜の事ゆるさる。
    • 天明8年(1788年)10月2日:先手頭長谷川平藏宣以盜賊捕獲命ぜらる。
    • 寛政元年(1789年)5月16日:捕盜の加役長谷川平藏宣以市井巡視晝夜怠りなく見巡るにより市中靜謐になり。めでおぼしめさるゝ旨を褒詩せらる。松平左金吾淸寅も同職にありし時の事を賞詩せらる。
    • 寛政2年(1790年)2月19日:こたび鐵砲洲向島石川大隅守正勲亭裏に。加役方人足寄場を新建あるにより。松平越中守定信より捕盜加役長谷川平藏宣以に示さるゝ旨あり。こははじめ平藏宣以の建議せし所なり。
    • 寛政2年(1790年)10月16日:先手弓頭長谷川平藏宣以捕盜の事その儘に勤むべしと命ぜらる。
    • 寛政7年(1795年)5月16日:先手弓頭長谷川平藏宣以病により捕盜の事ゆるされ。久々勤務により金三枚。時ふく二賞賜あり。

 系譜

 平蔵宣義

  • 長谷川家の家督は嫡子宣義(のぶよし)が継いだ。祖父や父と同様に平蔵を称した。小納戸役で世子家慶付きを命じられ、寛政9年(1797年)4月21日より江戸城西の丸に勤仕。文政9年(1826年)12月16日、従五位下・山城守に叙される。天保2年(1831年)6月8日、先手弓頭。天保7年(1836年)死去。66歳。
    徳川実紀
    • 天明8年(1788年)12月23日:初見のものには(略)先手弓頭長谷川平藏宣以子辰藏宣義。(略)その他尚多し。
    • 寛政7年(1795年)8月3日先手弓頭長谷川平藏宣以子小姓組辰藏宣義始め。父死して家つぐもの十人。

 栗本鋤雲

  • 幕臣。官位は従五位下安芸守。実は喜多村槐園の三男。
  • 幕末に外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任し、明治以後はジャーナリストとして活躍した。
  • 母が三木正啓の娘で長谷川宣以の姪。栗本鋤雲は平蔵宣以の義理の姪の息子にあたる。平蔵宣以の父・長谷川宣雄は三木忠任の娘を養女としており、のちに水原保明の妻となった。

 喜多村直寛

  • 栗本鋤雲の長兄。幕府医学館考証派の重鎮。
  • 寄合医師喜多村槐園の長男で、栗本鋤雲は実弟。
  • 父の隠居を受け、家を継いだ。

 住居

  • 本所三之橋通り菊川(現 墨田区菊川3丁目16番)に1,238坪の広大な邸があったが、平蔵宣以が出費の多かった火付盗賊改方を8年も務めたために私財はなくなり、四代目平蔵宣昭の時には邸を手放すこととなり、弘化3年(1846年)江戸町奉行遠山金四郎(左衛門尉景元)の下屋敷(本邸は愛宕下)となった。

      屋鋪授受弘化三年七月
    長谷川平藏拝領屋敷
    南本所三ノ橋通                     町 奉 行  景元
    九百四拾坪餘                         遠山左衛門尉え
     
    遠山左衛門尉拝領屋敷
    駒込四軒寺町                       小普請組大岡兵庫支配
    貳百坪                               長谷川平藏え
                                           高四百石

  • なお小説で有名な役宅「本所入江町」は実は別の「長谷川家」であり、こちらは伊勢国司北畠家に仕えていた400石の家系である。この違いは作家池波正太郎の勘違いによる。
  • また「役宅」のほかに「本宅」として登場する目白台は、与力同心の御先手組弓頭時代の組屋敷であり、本来の火付盗賊改方の役宅は本所三之橋通り菊川が使われた。

    小野勇太郎拝領屋敷
    小日向服部坂上五軒町三百坪之内        同 大岡兵庫支配
    五拾坪                                  長谷川平藏え

    本所菊川という地名はかなり変遷しており、宝暦10年(1760年)にはくろくわ(黒鍬)通と呼ばれていたものが、明和5年(1768年)には本所三つめちょう通、天明7年(1787年)には本所きく川丁と変わっている。ただしこれらは同一の住所に対する呼び名であるとされる。のち天保年間に町奉行遠山金四郎景元が住む頃には本所菊川町として定着したらしい。

 愛刀

 火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)

  • 火付盗賊改方(火附盗賊改)とは、江戸期において特に重罪とされた火付け(放火)ならびに盗賊(押しこみ強盗)、賭博を主たる目的として取り締まった役職のこと。火附改、盗賊改、博打改の三科があるが、一人で兼帯することもあれば、二人で務めたときもあった。
  • 本来は臨時役であり、御先手組頭(先手弓頭・先手鉄砲頭)、持組頭などから選ばれた。役高は千五百石、若年寄支配。
  • 火付盗賊改役は寛文5年(1665年)に設置され、元禄12年(1699年)に一時廃止されるも、3年後元禄15年(1702年)には復活した。

    寛文六丙午、此年間御持御先手之内一人、盗賊改加役始る、 御先手 水野小左衛門

    案盗賊改之事、始嚴有院殿之代歟、慶延略記曰、寛文三年八月。水野小左衛門守政、代大久保荒之助、領弓組也、同五年十一月、在盗賊常州下館而掠國民、將軍家命水野守政而被令追捕之、同十年十月、筧新兵衛正明代水野氏尚帯盗賊改之事也、先是無所見則始嚴廟之代歟

    元禄十二年十一月廿五日、持筒頭土屋市之丞正敬、盗賊考察をゆるされ、先手頭小倉半左衛門正仲、火賊考察をゆるさる、これより兩加職停廢せらる、

    只今迄、盗賊改火附改方江訴出候類之儀、向後寺社領ハ支配より寺社奉行江、町方ハ町奉行江、御領ハ御代官より御勘定奉行江可申達候、私領ハ地頭より支配方江可申出候、盗賊ばくち打、火附等之儀、彌入念候様に可被申渡候、以上

    元禄十五年四月九日先手頭徳山五兵衛重俊、盗賊考察を命ぜらる、この職廢する事四年にて、けふ復置せられしなり、

  • はじめは通称として用いられていたものだが、後に正式な職名となったとされる。江戸時代の武鑑にはすべて「火附盗賊改役」。文久2年(1862年)時には1500石扶持。

    元治元年武鑑
    火附盗賊御改 與力廿六騎、同心百廿人

    安政六年武鑑
    若年寄支配盗賊并火附御改
    御役扶持四〇人フチ  外ニ廿人フチ

     文久二年十二月十八日
                                 土方八十郎火附盗賊改
                                 大久保雄之助火附盗賊改加役
    火附盗賊改之儀、今度御役名に被仰付候に付、場所高千五百石、御役扶持六拾人扶持ヅ、被下布衣場所、若年寄支配、席之儀は御先手之上たるべく候、

  • 慶応2年(1866年)に廃止された。

    慶應二年八月四日庚寅五日幕府小普請組支配其他若干ノ官職ヲ廢ス
    火附盗賊改役名ヲ廢ス

  • 天保14年(1843年)に清水門外の内藤伝十郎屋鋪跡に火附盗賊改役宅が出来た際の森山孝盛による書留があり、屋鋪の構造がわかっている。

    天保十四年、此年清水御門外、内藤傳十郎屋鋪跡江火附盗賊改御役宅出來、

    天保十三年四月左之屋鋪授受有り
    圖(略)
     下谷長者町 内藤傳十郎屋敷坪數千坪
       東 内藤傳十郎御預地、山中又兵衛組西丸御徒組屋敷。 西 道。
       南 道。                                北 山中又兵衛組西丸御徒組屋敷。
     東 三十三間。  西 三十三間三尺餘。
     南 三十間壹尺餘。  北 三十間三尺。
    清水御門外内藤傳十郎屋敷御用ニ付家作共差上、爲代地下谷長者町矢部駿河守上り屋敷之内千坪、家作共傳十郎拝領仕候ニ付、被成御渡、四方間敷、御繪圖之面、御定杭之通、相違無御座奉請取候。
     
     ※但しこの内どこまでが役宅となったのかは不明

    假牢白洲訴所等取建之覺
    一、假牢詰小屋ト云
    九尺に三間四方程無之候而ハ用弁致兼候、此内非人詰板番居候所ハ別ニ仕切、尤板はめ丈夫に申付候。
    一、白洲
    貳間に三間程も無之候而ハ、相成不申候、上之間四畳敷、三尺之板縁、うすべり敷、下は壹間程筵敷、其上に而拷問等致候。外ハ砂利。
    一、長屋下腰懸
    貳間に三尺之さしかけ。
    一、内腰懸
    壹間に貳間、屋根葺、薄縁敷。
    是ハ出訴の者、或ハ引合之者、證文等認候所也。但、門前出茶屋相願候者、必有之候、右之願次第、右當人より御普請方江爲願大腰懸に而も拵候得バ、此方内腰懸ハ入不申候、尤此方よりも御普請奉行江懸合遣候而宜敷候。
    一、訴所
    是ハ別に拵に不及、内玄關又は居宅之模様により、有合之所を用候。

  • 火付盗賊改方としての長谷川平蔵は、当時の老中松平定信に進言した石川島の「人足寄場」設立の業績が有名で、また通例2年~3年の火付盗賊改方を、亡くなる直前まで8年務めた。

Amazon Prime Student6ヶ月間無料体験