鎺国行


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 鎺国行(はばきくにゆき)

太刀
磨上無銘 国行
二尺三寸八分
仙台市所蔵

  • ハバキ国行
  • 来国行の作
  • 政宗の遺愛刀
  • 新調の鎺は、金無垢二枚鎺で、松皮苔の上鎺に「国行」の二字透かし彫り。

 由来

  • 鎺(ハバキ)に銘があり、それに「国行」と彫ってあったため名付けられたという。

    國行銘御座候付而、鎺國行と申、

  • 伊達家剣槍秘録にも最初に掲載する。

 来歴

  • 天正17年(1589年)6月9日に秀吉が政宗に贈ったとされる刀。
  • 同年の正月より以前に、目赤鶴を捕らえたという伊達政宗の自慢の鷹を秀吉が聞き及びそれを所望した所、政宗はその鶴を添えて献上している。

    (天正17年3月)廿四日辛未(略)關白殿ヨリノ御使伴淸三郎方ヘ目赤鶴取ノ御鷹遣サレ見セシメラル 關白殿ヨリ鶴取ノ御鷹 公御所持ノ由聞召及ハレ御所望ノ旨㝡前モ富田左近將監殿ヲ以テ仰遣サル今度又淸三郎下向ニ就テ彌彼御鷹進上セラレ可然旨富田殿ヨリ書状覺書ヲ以テ内意アリ依テ進獻セラルヘキタメ今日先ツ淸三郎ヘ見セシメラル且又富田殿ヨリ 公當春夏ノ間御上洛 關白殿ヘ御禮仰上ラレ然ルヘシ若シ御遅延ニ於テハ御名代トシテ重キ者ヲ差登サレ可然ノ旨内意アリ富田殿書状覺書左ニ載ス
     
       覺
    一、目赤之鶴取急速御進上可然存候畢竟御爲ニ候間委細申宣候事
     付金山宗洗者御機遣候ハんと存候間以來者彼伴淸三郎ニ御用之儀御隔意可被仰付候事
    (略)
     以上
                  富田左近將監
     正月廿八日         一白書判
       伊達殿
         参人々
    (略)
    此後目赤鶴取ノ御鷹并ニ所捉ノ鶴ヲ副ヘ遠藤若狭諱不知御使トシテ 關白殿ヘ贈獻セラル富田左近將監殿ニモ兄鷹贈進セラル日付不知

    「伊達家治家記録」より。記載のない主体及び「公」は政宗。關白殿は秀吉。

  • 秀吉はのち、この鷹及び鶴のお礼として、この太刀を贈った。

    (天正17年7月26日)今日 關白殿ヨリ御使伴淸三郎下着ス去月九日御日付御書ヲ以テ御太刀鎺國行ヲ贈賜フ是今年三月下旬 公ヨリ遠藤若狭ヲ御使トシテ目赤鶴取ノ御鷹并ニ所捉ノ鶴差副ヘ贈獻セラルニ依テ御感ニ被思ノ旨仰下サル富田左近將監一白ヨリ書状相副ヘ到來ス片倉小十郎披露ス 關白殿御書并ニ左近將監殿狀左ニ載ス
     
     目赤鶴取鷹之儀依被 聞召及被 仰出候處則進上悦思食候誠御自愛此事候遼路別而入念早速京着殊彼鷹之鶴相添到來御感不斜候随而太刀一腰鎺國行被遣之候猶富田左近將監可申候也
       六月九日     御書判
          伊達左京大夫トノヘ

  • 昔は友鎺であったのを本阿弥家で直させたという。同年6月11日付の秀吉の近臣富田一白による政宗宛の手紙によれば、鎺を金無垢に作り替えた時、本阿弥家で元の共鎺が行方不明になったが、見つけ出して提出するように一札採っているという。

    國行之太刀一振被進之候 殿下様一段と御秘蔵之御太刀之事に候間於其方も御秘蔵尤存候、鎺に國行と銘御座候に付、鎺國行と申、天下に隠なき候
    然者鎺本阿彌所にて、置所を失念仕候條、軈而尋出、重而自是可進之候、爲本阿彌一札取候て進入候、

  • 老年、伊達政宗は、亘理来(わたりらい)、くろんぼ斬景秀鎬藤四郎、そしてこの鎺国行はこの歳まで身から離さず秘蔵してきたため、今後も他家に出さぬよう命じたという。

    公毎年元日ニハ白綾ノ御小袖ニ菊桐ノ御紋付クルヲ召サセラル、御長袴ノ上ニ御小サ刀鎬藤四郎ノ御小脇指ヲ指セラル(略)近年ハ、此鎬藤四郎ノ小脇指ヲ指ス、刀ハ景秀亘理来、鎺国行ナリ、此三腰ハ何レモ劣ラヌ大役、身ヲ放タヌ重宝ノ道具ナリ

  • 貞享元年(1684年)12月に本阿弥折紙を出させている。

    貞山様御拝領
    一、鎺国行御刀 金百枚
       壹ノ四番
    城州國行
    正真 長サ二尺三寸八分 少磨上無銘也
     代金子百枚
     貞享元年
       極月三日  本阿光忠(花押)

  • 御腰物方御道具本帳

    貞山様御拝領   貞享元年極月三日
    鎺国行御刀      金百枚
      無銘スリ上 長弐尺三寸八分
     鎺上下金上無工国行文字□下台在

  • 明治16年(1883年)~17年ごろまで仙台南町御蔵にて保管。
  • 太平洋戦争終了まで同家に伝来。
  • 2019年3月、仙台市に寄贈されたことが報道された。それによると、刀剣研究家として高名な小笠原信夫氏が所有していたが、去年亡くなったことから、本人の遺志にそって平成31年2月18日に仙台市へ寄贈されたという。

 「目赤鶴」について

  • この一連の書状に登場する「目赤鶴取ノ御鷹」については様々な解釈があるが、上記引用で分かる通り、目赤鶴を捉えた鷹としか読めない。
    ただし現在の生物学的な分類において、どの鶴が「目赤鶴」に該当するのかについては不明である。一時期「目が赤いのは、鶴じゃなく鷹なのではないか」という議論が行われていたが(つまり「鶴取ノ目赤ノ御鷹」的なものではないかという話)、当時の価値観や物の表現は現在と異なる場合が多いため、注意が必要な事例であると思われる。
  • なお治家記録には、ほぼ同じ時期である天正16年9月4日の条で「目赤ノ鶴」が政宗に献上されている箇所もあるため、目赤なのは鶴であることは間違いないと思われる。

    (天正16年9月)四日甲寅午刻ヨリ雨降○(略)○福原古月齋目赤ノ鶴持参獻上ス御鷹屋ニ於テ御酒ヲ賜フ○(後略)

    "古月齋"は安積郡福原城主の福原孤月斎。

  • この孤月斎献上の目赤の鶴がどうなったのかは記事がないが、翌天正17年(1589年)正月下旬には京都から金山宗洗齋が到着し、秀吉及び一白からの書状を政宗に渡している。これには前年9月に献上された弟鷹についての礼が述べられており、さらに鶴を捕らえたという鷹を献上するように要求している。この天正17年正月に要求されているのが鎺國行の返礼へとつながる「目赤鶴取ノ御鷹」となる。

    (天正17年正月)下旬京都ヨリ金山宗洗齋下着 關白殿御書并ニ富田左近將監一白書状持参ス去年九月公弟鷹ニ雙進セラルに就テ左近將監殿披露ヲ遂ゲラレ祝着ニ被思ノ旨御書ヲ成シ賜フ且又鶴取ノ御鷹 公所持シ給フ由聞召及ハル御進上ニ於テハ彌御悦タルヘキ旨左近將監殿ヲ以テ仰出サル

  • その後、天正17年(1589年)3月には、秀吉からの使者である伴清三郎に対して「目赤鶴取ノ御鷹」を見せており、それが上掲した「廿四日辛未(略)關白殿ヨリノ御使伴淸三郎方ヘ」から始まる部分となる。
  • 結局はこの目赤鶴及びそれを捕らえた鷹は、天正17年(1589年)3月下旬に遠藤若狭を使者として献上され、それへの返礼として本刀鎺国行が贈られたということになる。
    一般的に刀剣書において、本刀は目赤鶴の礼として贈られたと記述される(もちろん外交文書上でも「贈獻セラルニ依テ御感ニ被思」と記される)。しかし、この時期の豊臣政権にとって懸案事項の一つとして奥州静謐化があったことも大きく関係している。
     すでに天正15年に九州征伐を終えており、天正16年には最上氏、伊達氏が相次いで豊臣政権への恭順姿勢を示したこともあって進展が期待された時期でもあったが、天正17年5月に伊達政宗が蘆名氏の会津領へと侵攻を開始、さらに同年11月には後北条氏が秀吉の沼田領裁定を覆して真田領名胡桃へと侵攻したことにより政権の目論見は大きく狂ってしまう。
     やがて天正18年の後北条氏征伐に続いて東北征伐が行われることになるのだが、本刀鎺国行が贈られた時期は、ちょうど政宗が蘆名氏を攻めた時期に重なっている。蘆名氏を滅ぼしたことで一時的に150万石近い大領を収めた政宗だったが、結局は奥州仕置によって会津領は召し上げられ72万石程度へと減封されることになる。
     文献によっては秀吉が目赤鶴に執心したとも書かれるが、鷹及び鶴の献上は中央政権への服従の象徴であったといえる。

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