道長四天王


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 道長四天王(みちながしてんのう)

 概要

  • 藤原道長に仕えていた兵(つわもの)、源頼信、平維衡、平致頼、藤原保昌の4人を指す。

    頼信、保昌、維衡、致頼とて、世に勝れたる四人の武士也
    (十訓抄)

Table of Contents

 源頼信(みなもとのよりのぶ)

清和源氏経基流、源満仲の三男
河内国石川郡壺井を本拠地とする河内源氏の祖

  • 母は藤原保昌の妹。
  • 異母兄の源頼光と同じく、関白の藤原道兼に仕えた。道兼の死後は藤原道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てた。
  • 甲斐守在任時の長元4年(1031年)に平忠常の乱を平定し、乱の後、坂東の武士たちと主従関係を結ぶようになり、後の河内源氏による東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた。
  • この源頼信ののち、河内源氏は源頼義(伊予入道)、源義家(八幡太郎)と続いた。

 平維衡(たいらのこれひら)

桓武平氏国香流、平貞盛の四男
伊勢平氏(平清盛ら)の祖

  • 父の平貞盛は、従兄弟にあたる平将門が乱を起こすと、母方の叔父の藤原秀郷の協力を得て4000余の兵を集めると将門を攻め、迎撃に来た将門勢を破り次第に追い詰め、「北山の決戦」にて、ついにこれを討ち取っている。後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した。
    平貞盛の嫡流は次男維将が継ぎ、維将の孫である平直方の子孫は執権北条氏・熊谷氏を称している。また直方の娘が源頼義と結婚して源義家等を産んだ。
  • 貞盛の四男の平維衡は、遥任の国司として下野守在任中に伊勢国神郡において同族の平致頼(維衡の又従兄弟)と合戦を繰り広げた為、後に両者ともに朝廷に召し出されて尋問を受けるが、維衡については過状(詫び状)を提出したため淡路国へ移郷で済まされている。

    而るに前下野守維衡・散位致親等、数多の部類を率ゐて、年来の間伊勢国神都に住む。国郡のため(欠)事の煩ひ有り、人民の愁ひを致す

    是日、前下野守平維衡を淡路に移郷し、散位同致頼を隠岐に、散位藤原宗忠を佐渡に配流せしむ、

  • 長和年間から治安年間(1012年‐1023年)にかけて上野介、備前守、常陸介を歴任している。
  • 伊勢国における争いはそれぞれの子息(維衡の子・正輔と、致頼の子・致経)の代にまで引き継がれるが、致経が比叡山横川で出家し亡くなるに及んで維衡一派の覇権が確立し伊勢平氏として発展する。後に維衡の系統から平清盛が出て最盛期を築くことになる。

 平致頼(たいらのむねより)

桓武平氏良兼流、平公雅の三男

  • 父の平公雅は、平貞盛や平将門の従兄弟に当たる人物。天慶2年(939年)平将門が「新皇」を自称し叛乱をおこすと、翌天慶3年(940年)1月14日、将門の牽制のために任命された8人(坂東8ヶ国)の東国掾の一人となり、将門の乱の鎮圧後に安房守となった。天慶5年(942年)藤原秀郷の後任として武蔵守となり、将門の乱によって荒廃していた武蔵国・金龍山浅草寺を再建したことで知られる。
  • 平致頼は、長徳4年(998年)、同族の平維衡(※上述)と伊勢国神郡において合戦を繰り広げ、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかったために、位階を剥奪の上隠岐国へ配流となった。3年後の長保3年(1001年)、致頼は赦免され五位に復されたという。

    二十六日。不堪田并びに維衡・致頼の合戦、諸国の雑事を定めらる。
    (小記目録 長徳四年(998年))

    是日、前下野守平維衡を淡路に移郷し、散位同致頼を隠岐に、散位藤原宗忠を佐渡に配流せしむ、

    平維衡は上述の通り伊勢平氏の祖で、平清盛の5代祖父。
  • 大江匡房の「続本朝往生伝」において、一条天皇の時代の代表的な武士として源満仲、源満正、源頼光、平致頼と共に維衡の名が「天下之一物」として挙げられている。
  • 宇治拾遺物語「丹後守保昌、下向の時、致経の父にあふ事」に致頼と保昌が出会う場面が描かれている。

    これも今は昔、丹後守保昌、国へ下りける時、与佐の山に、白髪の武士一騎あひたり。
    路の傍なる木の下に、うち入れて立ちたりけるを、国司の郎等ども、「この翁、など馬よりおりざるぞ。奇怪なり。とがめおろすべし」といふ。ここに国司の曰はく、「一人当千の馬の立てやうなり。ただにはあらぬ人ぞ。とがむべからず」と制してうち過ぐるほどに、三町ばかり行きて、大矢の左衛門尉致経、数多の兵を具してあへり。
    国司会釈する間、致経がいはく、「ここに老者一人あひ奉りて候ひつらん。致経が父、平五大夫に候ふ。堅固の田舎人にて、子細を知らず、無礼を現し候ひつらん」といふ。致経過ぎて後、「さればこそ」とぞいひけるとか。

    藤原保昌が丹後守として現地に赴いた時のことで、白髪の老武士が平致頼であり、その後行き違うのがその息子の平致経である。

  • なお藤原道長が寛弘4年(1007年)に中宮彰子の皇子出産を祈念して金峰山参詣を行うが、この参詣中に中御門家の藤原伊周・隆家兄弟がこの平致頼を抱き込んだ上で道長の暗殺を図ったという「噂」が流れた。
    「小右記」自体の記事は残っていないが、それを分類した「小記目録」の寛弘四年(1007年)に、「九日。伊周・隆家、致頼に相語り、左大臣(※道長)を殺害せんと欲する間の事。」と残る。
  • 寛弘8年(1011年)死去。

    従五位下平致頼卒す、

 藤原保昌(ふじわらのやすまさ)

藤原南家巨勢磨流、藤原致忠の子

  • 摂津守として摂津国平井に住したことから「平井保昌」とも。
  • 藤原道長・頼通父子の家司を務めていたことがある。
  • 女流歌人として高名な女官、和泉式部の再婚相手。

 関係系図

             【嵯峨源氏】
桓武天皇─┬─嵯峨天皇─┬─源定──源唱──源俊──源俊娘
     │      └─仁明天皇──文徳天皇┐  ┃
     │                  │  ┠─源頼光…(摂津源氏の祖)
     │  ┌───────────────┘  ┠─源頼平
     │  │    【清和源氏】        ┃
     │  └清和天皇──貞純親王──経基王──源満仲
     │             (六孫王源経基)┃
     │                     ┠─源頼親…(大和源氏の祖)
     │                     ┠─源頼信──源頼義(河内源氏)
     │ 【南家巨勢麻呂流】           ┃       ┃
     │  藤原菅根──藤原元方──藤原致忠─┬致忠娘      ┠─源義家
     │                   ├藤原保昌     ┃ (八幡太郎)
     └葛原親王──高見王┐         └藤原保輔     ┃
      ┌────────┘                   ┃
      │                            ┃
      │藤原村雄─┬藤原秀郷                  ┃
      │     └村雄娘                   ┃
      │       ┃                    ┃
      │       ┠─平貞盛─┬平維将──平維時──平直方─娘
      │       ┃     └平維衡…(伊勢平氏)
      └─高望王─┬平国香──平繁盛──平維茂
  【桓武平氏高望流】 │
            ├平良兼──平公雅──平致頼
            └平良持──平将門

 関連項目


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