遅桜肩衝
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遅桜肩衝(おそざくらかたつき)
唐物肩衝茶入
銘 遅桜
大名物
三井記念美術館所蔵
- 「遲櫻肩衝」
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由来
- 遅桜の銘は、初花肩衝に対するもの。
- 初花より遅れて世に出たため、足利義政が「金葉和歌集」の夏歌の部に収録されている藤原盛房の「夏山の青葉ましりの遅桜初花よりもめつらしき哉」という歌に因んで名付けたもの。
遲櫻肩衝銘漢作遲櫻は初花に對して也、茶入東山義政公の時、初花より以前に名器選擧ならば、世上第一に唱ふべきを、初花第一とありし後に擧げたれば、次に付けたるならん。金葉集に「夏山の青葉交りの遅桜初花よりもめつらしき哉」、此歌意にて東山殿銘ぜられしとなん
なおこの歌にちなむ茶器としては、他に「瀬戸肩衝茶入 銘夏山」(彦根城博物館所蔵)も知られている。
来歴
足利義政
- 足利義政の所持。
篠屋宗久
- 天正の頃には京都の篠屋宗久が所持していた。
天正三年二月三十日朝 京の篠屋宗久會
宗久 一人
一、大燈墨跡掛て、但大ひらに。一、かたつき持出て見せられ候、遲櫻といふ壺也。
藤堂高虎
- 元和年間には藤堂高虎の所持となっている。
元和五年九月二十三日晝
藤堂和泉守様 關才次の所にて
客 中坊左近様 二人
床に
遲櫻肩衝 佐伯肩衝 四聖坊肩衝
上に
瀬戸肩衝
右四つ飾にて御茶被下候
関才次は奈良の町年寄。中坊左近は奈良奉行(南都奉行)の中坊秀政。この茶会記以前にも、元和4年(1618年)11月3日、12月17日にも伏見の藤堂邸に近衛信尋、西洞院時慶らを招いて茶会を催している。
蒲生忠郷
- 寛永頃には蒲生忠郷(蒲生氏郷の孫)の所持。
- 寛永4年(1627年)正月24日に忠郷が嗣子なく死んだため、茶入は幕府の所蔵となる。
松平忠明
- 寛永11年(1634年)5月4日、家光はこれを松平忠明へと与えている。
寛永十一年五月四日、城地に行くの暇をたまふ時、土井大炊頭を以て晩櫻と名づけし茶入をたまひ、七月洛に上らせたまふ時供奉す
松平忠明は奥平信昌の四男で、母は家康の娘・亀姫(盛徳院)であり、家康の外孫にあたる。奥平松平家の祖。当時忠明は大和郡山藩12万石の藩主。
寛永11年(1634年)は家光が最後に行った上洛。以降文久3年(1863年)の家茂まで徳川将軍家が上洛することは久しく絶える。
幕府
- 正保元年(1644年)6月、松平忠明の嫡子忠弘は、父の死後に襲封の挨拶を行った際に遺物としてこれを献上している。
正保元年六月一日襲封を謝するの時、父が遺物貞宗の脇指、及晩櫻肩衝の茶入、後陽成院宸筆の晩櫻の記一幅、無準が筆の一軸を奉る。
遅櫻 松平下野守 ニ番御長持 袋かんとう、鳥かうし純子
徳川綱吉
- 慶安4年(1651年)5月18日家光の死後、遺物として徳松(徳川綱吉)へと贈られた。
慶安四年五月十八日、御遺物を進ぜらるゝ品々。
徳松君へ御脇指貞宗、御掛物竺田、御茶入遲櫻、御葉茶壺落葉、金子五萬兩
を進ぜらる
幕府
- 綱吉の将軍就任と共に幕府の所蔵となる。元禄12年(1699年)時点では神田御殿にあったとされ、一時的に、綱吉の嫡子で早世した徳川徳松に贈られていた可能性がある。※徳川徳松は天和3年(1683年)5歳で夭折。
元禄十二年卯七月十七日
一遲櫻肩衝 神田御殿
袋ニ 筋廣東 裏上代海氣 丸紋純子蓋一枚
(上様道具帳)
- 以後、徳川宗家伝来。
三井家
- 三井家が買い入れ、現在は三井記念美術館所蔵。
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