狐切貞宗
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狐切り貞宗(きつねぎり)
短刀
相州貞宗作
来歴
- 奥平松平家の松平下野守忠弘が、元禄5年(1692年)12月28日に将軍に献上した短刀。
松平忠弘は奥平松平家で、家康の重臣奥平信昌と徳川家康の長女亀姫との間に生まれた四男松平忠明の子。転封を繰り返しており、出羽山形、下野宇都宮、陸奥白河の後に世継を巡って白河騒動を起こしてしまう。1692年7月21日には15万石から5万石減封のうえ山形10万石へ転封、忠弘は閉門を仰せ付けられた。
- その後閉門を解かれ、隠居を命じられた挨拶として自分の得物を献上した。
二十八日、得物狐切貞宗の小脇指をよび岐阜の茶壺を獻じ、御臺所に冷泉爲相筆の續古今集をまいらす。
松平忠弘
- 松平下野守忠弘は、奥平松平家2代。
- 奥平信昌四男である陸奥大和藩主松平忠明の長男として生まれる。
松平忠明の母が徳川家康の長女亀姫。
- 播磨姫路藩主、出羽山形藩主、下野宇都宮藩主、陸奥白河藩主と次々に転封している。
- 白河藩の時代に世継を巡っての御家騒動が起こる。家臣が二派に分かれ白河騒動と呼ばれる対立関係にまで悪化する。家臣が続々と退去しその総勢は93名に及んだという。
- これが幕府の知るところとなり、忠弘の遠縁でもある老中大久保忠朝は先んじて忠弘の家臣を呼びつけ、幕閣の正式決定が下る前に忠弘の自主的隠居を勧めている。しかしその後に決定された処分内容は、両派の首魁であった家老両名を遠島流罪、それだけに留まらず所領も召し上げという厳しいものであった。
- 後にこれが緩和され、10万石に減封された上に山形への国替え処分に軽減されたため、改易の危機だけは免れた。忠弘は騒動の責を重く受け止め、同時に隠居し、家督は孫の斎宮(奥平松平家3代、出羽山形藩2代藩主松平忠雅)に継がせた。
- 「狐切り貞宗」はこの後の年の暮れに献上したもの。
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