蜻蛉不留の槍
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蜻蛉不留の槍(とんぼとまらずのやり)
槍
相州正宗作
由来
- この槍に蜻蛉が止まると、真っ二つになることから名付けられた。
来歴
- もとは豊臣秀吉秘蔵の槍。
- 紀州根来退治の功を賞して、中村一氏が秀吉から拝領した。
- 嗣子一忠に伝えるが、一忠は重臣の飯田正国に与える。
この飯田正国は新右衛門といい、父である越後守正義と共に中村一氏に仕え、度々戦功を上げたという。嗣子一忠が生まれた時に、飯田正国を名付け親として指名し、「一角(一学)」と名付けたという。
なお中村一忠は天正18年(1590年)の生まれ。秀吉薨去の慶長3年(1598年)の時には9歳、慶長5年(1600年)の関ヶ原の時でも11歳だったため、この逸話は矛盾し、一氏から正国に与えたものと思われる。
- これを秀吉に報告すると、飯田正国は小田原征伐の際の箱根の二子山において数カ所の篝火を消して小田原から見られるのを防いだ。この功績は大きく、その槍の所持を許可し、さらにその鞘に付いている鹿の腹籠り皮(胎内にいる子鹿の皮)を余人が用いるのを禁じようといった。
可児才蔵との試合
- 当時、福島正則の家臣に高名な可児才蔵がおり、才蔵は宝蔵院流の十文字槍の遣い手であった。その腕前を知りたいと思っていた飯田正国は、小田原の前衛である山中城攻めの際にたまたま才蔵を見つけ、試合を申し込んだ。
- 両人とも秘術を尽くして戦い、飯田正国は身に四傷、才蔵は三傷を負うが勝負がつかず、引き分けとなって別れた。
- 後日飯田正国は、この槍がおもすぎて才蔵を突き伏せられなかったというので、実戦ではそれより軽く模造させた槍を使うことにした。
可児才蔵が福島正則に仕えたのは天正15年(1587年)の九州平定の後と思われ、天正18年(1590年)の小田原征伐では北条氏規が守備する韮山城攻撃に参加している。
写し
- 旗本で千石取りの大井新右衛門政景は、寛永の頃にこの飯田正国の子である正林に願いでてこの槍を模造し、鞘に鹿皮をかけて持ち歩いた。江戸の民はこれを見て「天下に一本の蜻蛉不留の槍が子を産んで二本になった」と囃し立てたため、政景はその模造の槍を持ち歩くのをやめたという。
中村家その後
- 中村一忠は関ヶ原の時わずかに11歳だったが、父の一氏が家老横田村詮の意見を聞き家康に面会し東軍に加わることを申し入れている。
横田村詮はもと三好氏の家臣と言い、のち中村一氏に仕え功績を上げ、一氏の妹を娶り親族衆となる。
- 一氏は関ヶ原直前の慶長5年(1600年)7月17日に死ぬが、家康は会談の約束通り中村一忠に伯耆一国を与え、米子17万5,000石に移封し国持大名としている。また叔父にあたる横田村詮を後見役、執政家老として同行させた。※7月27日付の家康からの書状が残る
- 横田村詮はよく補佐して城下町米子の建設に辣腕を振るったが、この出世を一忠の側近が妬み、一忠に甘言を弄して惑わせると一忠は横田村詮を誅殺してしまう。これが家康に露見すると、家康は自ら指名した横田村詮殺害に激怒し、首謀者の一忠側近を即刻切腹に処し、一忠は品川宿止めの謹慎に収めお構いなしとした。
- 一忠は慶長13年(1608年)には家康から松平姓を与えられたが、叔父・村詮を殺したこと、また城内外からの陰口妄言に苛まれ、慶長14年(1609年)5月11日、20歳の若さで急逝した。米子藩中村家は断絶。
後に加藤貞泰(加藤光泰の次男)が入るが、伊予大洲藩へと転封。そののちには播磨から因伯両国に入った池田光政の領地となった。
- 表向き中村家は断絶するが、一忠の側室(梅里と伝える)が男子(一清)を産み、後に因幡鳥取藩主池田光仲に仕えて着座(鳥取藩での家老の呼称)池田知利(下池田)の客分となった。禄高100~150石。
- 藩の取り潰しで飯田家も流浪したのか、「蜻蛉不留の槍」も行方がわからない。
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