荒切
荒切(あらきり)
太刀
福留親政佩用
三尺六寸
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由来
- 元は長宗我部元親の家老福留親政の佩刀。
姓は福富とも。官位は飛騨守。隼人とも称した。儀実ともいう。
- 天正3年(1575年)、土佐の統一を果たした長宗我部元親が阿波に出兵した際、福留親政が「おれが敵兵を荒切りにしていくから、後ろから来るものが小切りせよ」と命じて敵中に切込み、敵を一刀ずつ斬って計37人に手傷を追わせたという。
爰ニ覚世ノ従軍ニ福富飛騨守ト云者アリ、器量骨柄人に越大力ノ猛兵荒切ト云太刀ノ三尺六寸アリケルヲ、蛤齒ニ鍜セタル肩に掛テ、福富荒切シテ通ンズレハ跡ヨリ来ル輩ヲハ小切シ玉ヘ人々トテ唯一太刀宛打テ通ルニ、或ハ甲ノ鉢ヲ割リ付或ハ綿嚙ノ端ヨリ乳ノ下ヘ斬リ下馬ヨリ打落シ歩立ノ兵ヲハ尻居ニ動ト打リ居タリ、立所ニ三十七人打落トサレ死生知ラサル者多シ、當時御家ニ荒切ト申ス御重寶ハ此太刀ト承ハル
「土佐物語」では20人切り、「元親記」では37人切りと伝える。
- 福留親政は、この時の太刀を「荒切り」と名付け、元親の父である長宗我部国親に献上したという。
- 異説には、これは永禄6年(1563年)に安芸国虎が岡豊城に攻めてきた戦いであり、親政の子福留隼人儀重であるとする。
これが事実であるとすると、天文18年(1549年)生まれの儀重は当時15歳となる。
福留親子
- この親政の働きぶりは「福留の荒切り」と呼ばれ土佐で語り継がれた。親政への信頼は厚く、21回も感状を受けたほか、「親」の一字を与えられている。さらに元親嫡男の長宗我部信親の傅役を務めるなど重用された。
- また子の福留儀重も父親政に劣らず武勇に優れ、土佐の童謡にも「蛇もハミ(マムシ)もそちよれ、
隼人様 のお通りじゃ」と歌われる程であったという。さらに禁酒令を破った主君元親に対して、酒樽を打ち砕いて諫めたという逸話も残る。 - 儀重はのち天正14年(1587年)12月の戸次川の戦いに出陣し、元親嫡子の長宗我部信親らとともに討ち死にした。
- この福留親子は高知県高知市
大津乙 の隼人神社(田辺島神社)に祀られている。童謡にちなみ、この神社の土を取って帰って撒くと、その年中蛇が寄り付かなくなるという信じられた。
福留氏の系譜
福留親政──┬隼人佐儀重──政親 ├民部 ├平兵衛 ├新六郎 └新九郎
福留親政
- 永正8年(1511年)生まれ、天正5年(1577年)没。
- 官位は飛騨守。隼人。儀実とも。
- 勇猛果敢で知られ、「福留の荒切り」と呼ばれた。
- 福留親政の父は福留房吉(福留蔵人)とされる。
- 元親の嫡男の長宗我部信親の守役を務めるなど重用されていたが、天正5年(1577年)、伊予の戦いにおいて戦死した。
- 子は、長男儀重、次男民部、三男平兵衛、四男新六郎、五男新九郎がいる。
- 長男儀重
- 後述
- 次男民部
- 天正14年(1587年)12月12日長兄の儀重とともに豊後戸次川の戦いで戦死
- 三男平兵衛
- 伊予大津で合戦の際に深手を負い、帰陣するも三十歳で没。
- 四男新六郎
- 勝端城合戦にて26歳で討ち死。 ※天正10年(1582年)の中富川の戦い、または天正10年(1582年)十河城の戦いか。
- 五男新九郎
- 新六郎と一緒に20歳で討ち死。
福留儀重
- 福留親政の子。
- 天文18年(1549年)生まれ、天正15年(1587年)没。
- 隼人佐。
- 土佐の童謡にも「蛇もハミもそちよれ、隼人様のお通りじゃ」と歌われる程、父同様に武勇に優れた。
- 天正14年(1587年)12月12日、九州征伐の先陣として出陣して大敗した豊後戸次川の戦いにおいて、元親の嫡子の長宗我部信親らと共に戦死した。
福留政親
- 福留儀重の子。
- 生没年不詳。天正3年(1575年)生まれか。寛永元年(1624年)までは存命。
- 七郎兵衛。半右衛門。
- 父福留儀重が天正14年(1587年)12月12日に長宗我部信親らと共に戦死。この時政親は11歳であったという。
其節十一歳にて御坐候
- 長宗我部元親・盛親に仕える。
- 文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では17歳で従軍。
私儀其時分福富七郎兵衛と申候、十七歳にて御供仕候
- 25歳の時、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで主家が没落し、浪人する。
- 関ヶ原後、26歳時の慶長6年(1601年)加藤嘉明に仕えている。この時は「傳右衛門」と名乗っている。
慶長六年辛丑三月三日に土州を罷立、前田久右衛門と同道、豫州正木に罷越、加藤左馬介殿御家を挊申候、巻野三郎右衛門肝煎にて左馬介殿家老佃二郎兵衛を頼申候て相済申候、其刻阿波讃岐土佐の境目豫州宇麻の郡内川の上と申所に新城御取立川村權七と申仁を城代に被置候右前田久右衛門も私も權七組に成り同年四月廿六日に川の上へ罷越候、權七知行六千五百石取被申候、川の上ハ左馬介殿御居城正木より川の上へ廿一里御座候
私其時分ハ福富傳右衛門と申候
- 30歳時に「岡半右衛門」と改めている。
右福富傳右衛門を岡半右衛門に改め佐和山にゑのひ罷在候
- ついで井伊直孝に仕えている。
私儀江州佐和山に於て井伊掃部頭殿伯母聟中野越後に近附に罷成候、事の外念比に引請被申候、井伊右近大夫殿へ御出可被下旨、越後約束在候處、越後病死被致、力落申候處、越後子息助太夫不相替念比に被致候てかゝり罷在候廣瀬左馬助松下志摩奥山六左衛門小野源蔵戸塚左太夫別て念比にて合力なと有之候、助太夫不自由に候と申浅井郡七條村にて百十石安田村にて四十石合て百五十石賜ハり候、私浪人分の義に候之間知行にてハ御無用に候米可給候へと申候
- 39歳、慶長19年(1614年)~翌年の大坂の役では井伊隊に属し、徳川勢として参戦した。
- 冬の陣の後、和議がなると大坂城内に入り旧主長宗我部盛親にお目見えし、昔話や旧臣たちの奉公先について話をしている。
- 49歳、寛永元年(1624年)に尾張徳川家初代の徳川義直につかえている。
私儀江州佐和山を罷出、大河内茂左衛門以肝煎加賀國へ有付申所に相煩候て頭之毛悉抜申候故見若存望無御坐、尾州へ参候處、寺尾左馬介同心に罷成候へと被申則、源敬様御狀を被添寛永元年甲子七月十三日御目見仕候、右之仕合故坊主に罷成上下御免被爲遊ヘンテツにて相勤申候當御地にて本名福富半右衛門と相改候
- 半生を記した「福富平右衛門親政法名淨安覺書」が残り、史籍集覧に収録されている。
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