芦屋正宗
※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
芦屋正宗(あしやまさむね)
- 「蘆屋正宗」
- 享保名物帳所載
蘆屋正宗 朱銘八寸分半 松平薩摩守殿
表刃、裏護摩箸、両方ふくらの下細く、下護摩箸より上刃先染中心より古く成る故、朱銘出来元禄十年究め- なお刃長について名物帳では八寸五厘とあるが実際は一寸長く、昭和期で
9寸分半 あった。 - 平造り、表裏に素剣の彫物。
- なお刃長について名物帳では八寸五厘とあるが実際は一寸長く、昭和期で
由来
- 由来は不明。
- 「島津家刀剣目録」でも由緒不明となっている。
来歴
- 徳川将軍家以前の来歴は不明。
- 元和2年(1616年)4月8日臨終の時を迎えた家康は、枕頭に前田利常、島津家久、細川忠興、伊達政宗ら外様雄藩の藩主を呼び出し、後事を託す。
- このとき島津忠恒(薩摩藩初代藩主)は、家康から「ていや正宗」という脇差を拝領したとされる。
八日大御所御けしき彌重くわたらせたまふ。松平筑前守利常。 島津陸奧守家久。 細川忠興入道三齋等を御病床にめし。 御遺物とて各刀劍を給ふ。
- ところが本阿弥家の控えでは、これが「藁屋正宗」と記載されており、これが芦屋の誤記ではないかとされる。
四月朔日台徳院殿家久に帰国のいとまをたまはり吉光の御刀をたまふ。ときに東照宮の御不例日々におもらせたまふ。八日家久を奥の御座にめされ、懇の御諚ありていや正宗本阿彌が家の譜記には蘆屋正宗につくる。の御脇指を拝賜す。これ御永訣をおぼしめさるゝによりてなり。
(寛政重脩諸家譜)
- なお、島津家「御納戸御道具之事」では、「弥正宗」と「芦屋正宗」の2口別々に記載がある。
御脇差
一腰 弥正宗作、長八寸五部
但家康公より 家久公御拝領御脇差
一腰 芦屋正宗作、長九寸分半
但光久公御脇差
- これを見ると、家康より家久が拝領したのは前者「弥正宗」であり、長も合っている。一方後者の「芦屋正宗」は長も九寸分半で、光久所用と書かれている。
島津光久は薩摩藩2代藩主で、初代忠恒(家久)の息子。
- つまり、本来別々の短刀が、本阿弥家での誤記で”名前は芦屋、長さは弥正宗のもの”が享保名物帳に記載されたということになる。恐らくだが、享保名物帳に記載の朱銘や彫物などについても「弥正宗」のものであろうと思われる。
- 元禄10年(1697年)に「正宗 本阿」と朱銘を入れたが、現在は剥げてきている。
- 昭和3年(1928年)5月の島津家の売立で6400円の値がつくが親引きになっている。※下記引用では5000圓あまり
一、名物芦屋正宗 長九寸分半 平造表裏素劍の彫亂刄 諸々の働きは見ゆれ共少し疲れ氣味あり この短刀金五千餘円の入札物ありしも親引となれり
- 昭和29年(1954年)の売立で出品され、30万円で落札されている。※島津家を出た時期は不明。
- 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」では吉田利男氏所持。
- 現存
AmazonPrime Video30日間無料トライアル