芦名兼光
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芦名兼光(あしなかねみつ)
- 初代兼光の作
由来
- 会津蘆名氏(芦名氏)所持にちなむ。
来歴
- もとは蘆名氏重代の太刀。
- 天正12年(1584年)10月、父輝宗の隠居にともない家督を相続した伊達政宗は、近隣への積極的な侵攻を開始する。
- 天正13年(1585年)政宗は、二本松城主畠山義継(二本松氏)と手を組み田村氏からの独立を画策した小浜城主大内定綱を攻め滅ぼし、なで斬りを行う。これに恐れを成した畠山義継は政宗に和議を申し出、伊達輝宗の取り成しを受け和議が成立する。しかし輝宗は、その礼に訪れた畠山義継に拉致されてしまう。激怒した政宗は、父輝宗もろとも畠山義継を鉄砲で撃ち殺している。
- この時、父以来の宿老であった遠藤基信は追腹を切ろうとするも、政宗に制止されやむなく断念する。しかし基信は輝宗の四十九日の際に墓前において自刃し殉死してしまう。
遠藤基信はもと八丁目城下西光寺の住職の子という。伊達家重臣であった中野宗時に取り立てられ、やがて伊達輝宗の宿老となった。主に外交面で手腕を発揮し、天正元年(1573年)には織田家へも進物を贈っている。のち片倉小十郎(景綱)を見出し小姓へ推薦し、小十郎はのち政宗の軍師となって伊達家を支えた。
- この基信の跡を継いだのが遠藤文七郎宗信であり、まだ年若いながらも政宗の覚え目出度く宿老に取り立てられた。
- 天正16年(1588年)、伊達政宗は大崎氏の内紛に介入して侵攻するが、これに対して叔父にあたる最上義光も大崎側につき、参戦することとなってしまう。この時は政宗の母義姫(最上義光の実妹)の懇願により和議が成立した(大崎合戦)。
- その後この混乱に乗じて伊達領南部を葦名・相馬氏に侵攻されるが、この時遠藤文七郎宗信は政宗正室愛姫の実家である田村城を死守するなど活躍した。
- 翌天正17年(1589年)、政宗は磐梯山麓の摺上原において蘆名義広を破る。政宗はこの時入手した「兼光」を遠藤文七郎宗信に与えた。
- なお遠藤文七郎宗信は文禄2年(1593年)に京都にて22歳で病没したため、弟の遠藤玄信が遠藤家を継いでいる。
- その後、本刀は「芦名兼光」と呼ばれ、代々遠藤家に伝来したという。
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