生駒光忠
生駒光忠(いこまみつただ)
- 鎬造、庵棟、猪首鋒、身幅広く、重ねやや厚く反りは浅い。
- 先切、反僅か、新鑢目勝手下がり、目釘孔1個。
- 差表に「金象嵌銘光忠光徳(花押)」、裏に「生駒讃岐守所持」と金象嵌が入る。
由来
- 豊臣秀吉に仕えて讃岐一国を領した生駒讃岐守一正の所持銘があり、世に生駒光忠と号して名高い。
来歴
- 金象嵌を入れさせた生駒一正は生駒親正の子。
父の生駒親正は信長、のち秀吉に仕え、文禄4年(1595年)に讃岐国17万1,800石を与えられている。従四位下、雅楽頭に任じられている。秀吉晩年には中村一氏や堀尾吉晴と共に三中老に任じられて豊臣政権に参与した。慶長8年(1603年)に高松城にて死去。
- 生駒一正は天正19年(1591年)、従五位下讃岐守に叙任される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父・親正の代わりに会津出兵に参加し、そのまま東軍に与して関ヶ原本戦で武功を挙げた。国許の親正は西軍に加わっていたが一正の功により罪を問われず、1万5千石の加増となった。慶長6年(1601年)家督を継ぐ。慶長13年(1608年)妻子を江戸屋敷に居住させたためその忠義を徳川秀忠より賞されている。慶長15年(1610年)死去。
- その後、讃岐高松藩生駒家は生駒正俊(讃岐守)、生駒高俊(壱岐守)が相続するが、高俊の代に生駒騒動を起こし領地没収、出羽国由利郡に流罪となった。
- この頃に光忠を手放したのか、徳川実紀にも遺物として献上した旨の記述がなく、その後明治まで来歴は不明。
- 明治33年(1900年)に細川家16代細川護立候爵が購入する。
護立氏は明治21年(1888年)生まれで、当時数えで17歳。御母堂にお小遣いの前借りをして買ったという。本間薫山が「どのくらいお借りになりました」と尋ねたところ「三百何十円」だと答えたという。
なお護立氏は若い頃にこの光忠と重要文化財の守家を買ったほかはしばらく買い求めず、のち本間薫山らと交流するようになってからまた買い始めたのだという。
- 現在は細川家ゆかりの永青文庫に所蔵されている。
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