牛王吉光
牛王吉光(ごおうよしみつ)
脇差
牛王吉光
原田甲斐宗輔所持
由来
- 牛王は「牛の中の最上のもの」を指す。これから吉光の中で最上のものという意味で付けている。
来歴
- 元々は原田甲斐の父・原田民部宗資が、伊達政宗より拝領したもの。
- 宗資の長男・原田甲斐宗輔が10歳の時、仙台の岩手山で牛ほどもある白狐に襲われた。
- 甲斐がこの脇差を額に当てて立っていると、白狐は甲斐の頭上を飛び越えたと同時にその脇差で腹を斬られて死んだという。
原田甲斐は元和5年(1619年)の生まれなので、寛永6年(1629年)ごろの出来事ということになる。
- その後、寛文11年(1671年)3月27日、伊達騒動の張本人である原田甲斐宗輔が江戸の酒井邸で伊達安芸らに刃傷に及んだ時に使用したという。
原田甲斐が使ったのは備前吉次ともいう。刃長一尺八寸。闕所となり、払い下げとなった脇指は、ある武士が買い取ったが、度々けがをするので売り払った。それを買った仙台藩の遠田郡大嶺村の家でも怪我が絶えなかったので、中程から切断して山刀にした。ところが下人たちが喧嘩し、一人がその山刀を投げつけたところ木陰で昼寝していたその家の17歳になる少年の鼻にあたってしまった。その家の主人は度々の祟に恐れをなし、鍛冶に頼み鋳潰してしまった。これが宝暦の初め頃とする。また大嶺村の百姓が恐れをなし寺に収めておいたのを、ある人が申し受け持って帰ったが、そこの子供も大怪我をしたので志賀吉右衛門が譲り受けたともいう。こちらは明治まで仙台に伝来した。
- 万治3年(1660年)3代藩主の伊達綱宗が逼塞となり伊達綱村がわずか2歳で伊達家当主となったため、補佐として綱村の大叔父の伊達宗勝が命じられる。こののち、反宗勝派筆頭の伊達宗重(伊達安芸)との対立は徐々に避けられないものとなり、ついには伊達宗重により幕府への上訴が行われる。
- 寛文11年(1671年)3月27日、仙台藩重役6名が大老・酒井忠清邸に召還され、騒動の解決を図るが、その席上、原田甲斐(宗輔)は伊達宗重をその場で斬殺、さらに宗重派の柴田朝意と斬りあって傷を負い死亡した。享年53。
同月廿七日、内膳正殿御宅に罷出候様ニ申來候ニ付、宗重内膳正殿御宅ニ相詰罷在候内、酒井雅楽頭殿御宅に罷出候様ニと申來、直々雅楽頭殿に罷出候所ニ、稲葉美濃守様、久世大和守殿、土屋相模守殿、板倉内膳正殿、大岡佐渡守殿、宮崎助右衛門殿御列座、宗重、外記、甲斐、志摩、一人宛被召出、被相尋候、甲斐申上候分ハ、皆以相違不實ニ御座候由、甲斐追而申上候ハ、申残候儀御座候間、申上度由申候ニ付、罷出候節、宗重相詰候所後を罷通、其節脇指ニ而宗重を討申候、宗重脇指拔合、甲斐股に切付申候得共、宗重重手ニ御座候故、卽座ニ死去仕候、外記、蜂屋六左衛門、志摩、段々立合、甲斐を討候得共、外記六左衛門重手負、島田出雲守殿志摩立合、御討留被成候、右噪ニ付、雅楽頭殿敷臺前立噪候ニ付、御同人御家来關主税と申者、敷臺前切石之上に罷出、御老中御供衆に向、只今之噪、陸奥守様御家来衆打果候所ニ、事鎮り、御老中様方無御恙候條、何茂立噪被申間敷由申渡候、仍宗重供仕候家来、右主税に出會、様子承候得共、安芸殿儀不慮死ニ御遭候
- 事件後、原田家は責任を取る形で男子4人や男子の孫2人は、養子に出された者や乳幼児を含め全員切腹、斬首。妻と娘は他家お預けの処分になり、一家は断絶した。
茂庭綱元 原田宗資 │ ├──原田宗輔(原田甲斐) 香の前 ┌津多 ├────┴亘理宗根 │ │ │亘理重宗─┬娘 │ └亘理定宗┬[弟]伊達宗重(伊達安芸、涌谷伊達氏2代) │ └伊達宗実 │勝女姫 │ │ │ ┌────岑姫 │ ├────┴────伊達宗勝(伊達兵部、一関伊達氏) │ │ ├──伊達宗興(小倉藩小笠原忠雄預り) │ │ ┌立花宗茂(柳川藩初代) │ │ │ │ └立花直次───┬立花種次──娘 姉小路公景四女(酒井忠清養女) │ │ │(筑後三池藩初代藩主) │ │ 松平忠輝 │ │ │ │ └立花忠茂(柳川藩主2代) 伊達政宗 ┌五朗八姫 ├───立花鑑虎(柳川藩主3代) │ │ │ │ │ ├──┤池田輝政─┬池田光政 ┌鍋姫 │ 愛姫 │ └振姫 ├虎千代丸(早世) │ │ ├────┴伊達光宗(正保2年没) │ │ │ふさ ┌田村宗良(はじめ鈴木重信養子、のち田村氏) │ │ │├───┴伊達宗規(岩谷堂伊達氏3代) │ ├──────伊達忠宗(仙台藩主2代) │ └伊達宗綱 ├─────伊達綱宗(仙台藩主3代) │ │ ├─────伊達綱村(仙台藩主4代) │ 櫛笥隆致─┬貝姫 三沢初子 │ │ │ └櫛笥隆子 │ ├─────後西天皇(第111代) │ 後水尾天皇(第108代) │ ├────┬伊達秀宗(宇和島藩初代藩主) 新造の方 └伊達宗清(吉岡伊達氏当主)
牛王(ごおう)
- 牛王とは本来、「牛黄(ごおう)」であるとされる。牛黄とは、千頭に一頭の割合でしか見つからない牛の胆石を原料とする漢方薬。古来非常に貴重とされ、古代中国では皇帝への献上物とされた。また日本でも大宝律令で次のように定めている。
凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、脳、角、胆を
収 れ、若し牛黄を得ば別に進 れ(廐牧令 官馬牛条)
つまり官牧において牛馬が死んだ際には必ず内蔵を取り、牛黄が見つかった場合は朝廷へ納める決まりであった。現代では牛舎の衛生環境が改善されてしまったために、胆石(牛王)を持つ牛がさらに希少となってしまった。そのため小売価格ではわずか5gで数万円もの値がついており、市場で取引される地金価格を超えている。
- この「牛黄」が「牛王」に転じたのは、熊野牛王符の朱印の材料に使ったためという。
要するに牛王の符は、牛黄なる霊楽を密教でその儀軌に収用し、一種の加持を作成したことから起こったものであろう」と言われた。すなわち旧説に、牛王は牛玉であって、また牛黄、牛宝とも称し、牛胆の中から得るところの最も貴き薬である、これを印色として符の上に印するより牛王宝印と称す、というに拠ったものだ(南方熊楠「守札考」)
- 熊野牛王符は神符のひとつで起請文に用いられた。鎌倉時代には起請文は各地の社寺で頒布される牛王宝印の裏に書くのが通例となった。とくに熊野三山の熊野牛王符(熊野誓紙)がよく用いられ、熊野誓紙に書いた起請文の約束を破ると熊野の神使であるカラスが三羽死に、それとともに約束を破った本人も血を吐いて死んで地獄に堕ちると信じられた。
- 戦国大名なども約束を交わす際に熊野誓詞を用いている。
同名刀
- 各種芝居で登場する。
伊達染仕形講釈
- 天明2年(1782年)上演の桜田治助作の「伊達染仕形講釈」。
- 不破伴左衛門の差料牛王吉光は、その先祖が足利義持より拝領したという。
敵討相合袴
- 文化7年上演された瀬川如皐作の「敵討相合袴」。
- 吉岡民右衛門の所持。無銘ながら金灯籠の吊鐘を切って落とす。
於染久松色読販
- 文化10年上演の鶴屋南北作「於染久松色読販」。
- 久松の父、石津久之進が主家の宝刀牛王吉光紛失の責任をとって切腹となる。
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