源氏長者
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源氏長者(げんじちょうじゃ)
源氏一族全体の氏長者の事
原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる。
源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。
概要
公家の源氏長者
- 初代源氏長者として嵯峨天皇の子である左大臣
源信 がついて以降、嵯峨源氏から出ていたが、その後村上源氏の源師房がなって以降は村上源氏の師房嫡流とされた久我・堀川・土御門・中院の四家から出された。
北畠親房は中院家の分家で、当時適任者がいなかったため着任。
武家の源氏長者
- 武家源氏での源氏長者は清和源氏の足利義満が最初であり、足利将軍家(義満、義持・義教・義政・義稙)と徳川家康に始まる徳川将軍家が武家のまま源氏長者になっている。
- なお、戦国時代に入ると江戸幕府開府までの間は、再び村上源氏から源氏長者が出されていた。
源氏嫡流とは
- 似た意味の言葉で、「源氏嫡流」や、いわゆる「源氏長者・淳和奨学両院別当」があるが、それぞれの意味が異なる。
- 前者の「源氏嫡流」は、鎌倉幕府を開いた頼朝が自らの正当性と他の源氏一族を排斥するための理屈として確立したもの。
- 後者は源氏嫡流である頼朝系が絶えた後、室町に幕府を開いた源義家三男源義国に始まる下野源氏の足利氏が一時期占有することとなった。
淳和院別当・奨学院別当
淳和院
- 淳和院とは淳和天皇の別院を指し、実兄の嵯峨天皇が行幸した(813年)ことに始まる離宮のこと。
- 元慶年間(882年)に淳和院と嵯峨上皇・檀林皇后・淳和太后(正子内親王)の陵墓、および大覚寺などの管理を行う公卿職を設置し、これを淳和院別当と呼んだ。
- 淳和院は、明応2年(1493年)の明応の政変で失われたが、その後も職名だけが存続していたと考えられている。
奨学院
- 奨学院は、平安時代の大学別曹の一つ。
- 元慶年間(881年)在原行平による創設で、後に大学寮南曹として公認され、勧学院と並び「南曹の二窓」と称された。
- 大学別曹は、貴族の没落と共に衰退し、学長相当の別当職名だけが残った。
村上源氏による両院別当の兼務
- 保延年間(1140年)に、村上源氏中院流の源氏長者源雅定が淳和院と奨学院別当を兼務して以後、淳和院別当・奨学院別当は源氏長者を兼ねる慣例が生まれた。
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